2010年11月16日

健康と病気の神学

WHO(世界保健機構)の健康に関する定義では、ただ身体に病気がないという状態だけではなく、精神的にも健全な状態までを含めた概念としています。
宗教、特に仏教の開祖お釈迦様は、ある意味で「医王」でもあると経典にも表現されています。即ち、お釈迦様は人生に何故「苦」があるのかをお釈迦様なりに(敢えて、なりにと言います)解決しその真理を見いだした、ということです。即ち、苦を抱える人間は、病気に例えられ、その病気の有様とその原因を探り出し(苦諦、集諦)、どうして苦を無くし苦から抜け出すか(滅諦、道諦)を説く。それが病気を処方する医者の有様(医学)と類比されて、その名医ということで「医王」と評されているわけです。

しかし、お釈迦様の「治療と薬」は、ある一定のレベルにおいてしか効能をもたない、と大胆にも言うしかありません。そんな事を言えば、修行し、今も仏門に入ろうとしている多くの国の内外の人々に失礼かと思いますが、お釈迦様の説いた教えに生涯捧げ修行した人達は多いですが、そうした人々は個人で高徳の人はいますが、家庭単位で家族として高徳の家族になった、その後の家系を残したという話は聞いたことがありません。何故でしょうか?それは血筋において、血統問の課題として何ら解決処方が示され実現されていない、という現実です。

お釈迦様自身には、羅睺羅という弟子になった息子がいましたが、彼の子孫が残って仏者として指導する家系になったという歴史はありません。仏教全体の問題課題として、親が真実の信者で子孫も極楽浄土に直通する、といった人達を一人も知りません。これはいかなる他の宗教も同じです。例え、キリスト教であっても、どんなに深くイエスキリストを愛し、十字架にかかる程の信仰があってもその家族や子孫が天国に直通するクリスチャンは一人もいません。何故 何故?? 罪の根本解決ができていないからです。パウロが嘆き表現しているように「私の肢体には別の律法があって、私を虜にしている」という煩悩ともいうべき、罪の思い、心身の根源から罪が抜けきっていないという現実。

本来の人間の姿と天国世界のブループリントがあって初めて心身と人間世界の健康が分かります。本来の人間の姿は、個人ではなく、夫婦と家族のある姿、青写真です。それが神の構造に相対する人間の姿です。従って、健康な状態が分からないあらゆる宗教に根本的な病気に処方ができるわけがないのです。本物の人、本物の家族家庭が現れなければです。
 
本物の人間とは、イエスキリストが一番最短距離のおられたのですが、家族をもつことができませんでした。
真の神学が現れなくては難しいのです。バルト神学もダメなのです。統一神学でなくては。

肉食妻帯する仏教者は、家庭をもっていますが、妥協の産物でしかなく、上位に立つ人ではありません。職業です。キリスト教が暗示してきた「原罪」これが病気の根本ですから、遺伝的罪、連体的罪、個人的罪 これら全てこの根本の病因を取り除かなくては真の「健康」には、人間は人類はならない、のです。この処方をもって来られるのが、再臨の主で、世界から誤解と迫害を受けておられる方です。

その方を見いだす世界の賢者は何処に?
名もなき人々でしょうか?それとも、世界の宗教指導者でしょうか? 政治家でしょうか? その方こそ正に「大医王」でしょう。
世界の人々はもう数年して、その大医王を知るでしょう。皆こぞってその方の治療を受けましょう。








posted by バーナードショー at 23:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月06日

神道の一端

「ひろさちやが聞く 神道の聖典」(すずき出版)という本が参考になり、神道から学ぶことがあります。比較宗教的に神道とユダヤキリスト教の違いを意識して、神道の余りしられていない面を浮き彫りにしようとしていて面白い対話形式の本になっています。

多くの神様が扱われている神道とユダヤ教、キリスト教、イスラム教の唯一の神様とは違うのですが、しかし、どこかの底流でつながっているような感じをもちます。正月は、正月神を家に迎えて共に祝い、食事も家族とともにするのが正月の意味だということです。正月様という神様は祖霊でもあり、元来は農業神でもあるということのようですが、夏のお盆といっしょで、それぞれの先祖を迎えて年に1−2度共に生活する、あるいは祝うということです。神道の一日の始まりは、夕方からということも面白く、聖書の創世記には、神が天地を創る時、「夕となり、朝となった。第一日である」とあります。誰でも夕となり朝となったら、2日目だと思いますが、聖書ではそれが最初の日として第1日だと言っています。神道もそのように考えていたとは、少し驚きです。何故なら、古代ユダヤ教の伝統と神道の文化には、共通性が言われることがあるからです。鳥居の形、烏帽子、塩の使い方、幕屋と神輿などです。

系図的には、天の御中主の神からずっとイザナギの神から天照大御神そして、神武天皇に始まってずっと今の天皇に至るまでつながっていますが、ユダヤ教においても、天地創造の神に創られたアダム エバ(人類始祖)に始まり、増え広がりながらも、中心的にはイエス様までつながる?流れがあります。勿論、イエス様は聖霊によって身ごもったとあるので断絶はしているのですが。

韓国の人々は、正月や秋夕(日本のお盆に当たる)に、大挙して田舎に帰り、やはり先祖を祭り、迎えるという伝統があり、それは必ずしも儒教だけの影響ではなさそうです。民族の底流にある古思想のようだと思います。また正月様という神と共に食事をもつ、ということも重要な伝統です。日本ではこうした伝統思想はすっかり無くなってしまい、ただ1年の始まりだから、という考えばかりのようです。その大衆化した行動が、大晦日に始まる神社詣でとなります。

しかし、宗教や民族を越えて、本来どう神をとらえようと、神と共に生活し、衣食住を共にするというのは、人間本来の姿勢、態度、考えのようで、そうした共通事項にもっと眼を向けて良いように思います。

日本の歴史は、仏教と神道が複雑に織りなして、人々の生活や思想、時には戦いを起こしてきました。DNAの如く二重螺旋のように歴史を綴ってきましたから、日本の歴史を研究する内外の研究者は、どちらにも目配せしなければ、片手落ちになるのを感じるのだと思います。

個人的には、神道の白装束は、何か清楚な感じで好ましく感じられます。余り自己主張しないのが神道の良い面だと思いますが、その姿勢を持ちながらも、崩れる社会に意見を言う課題もあると私も考えます。













posted by バーナードショー at 18:31| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月27日

天上と地上からの思考

私は、天地創造の神の存在とその創造そして生きて?働いておられることを信じる立場ですが、一応それは背後においておきまして、
人間の思考や認識方法にも、帰納法と演繹法があります。勿論聖書を始めキリスト教的思考は、神からの演繹法をとっていると言えます。
そして、仏教は、釈尊が霊界を尋ねることを禁じたために、原始(根本)仏教は、人間の立場から如何に人生の苦痛を克服するかに重点がおかれています。大乗仏教の中ですが、禅は特にその傾向があるかも知れません。即ち、己の本分、本姓、本来の面目を喝破悟ることが重視されていますから。
自然観も、山川草木悉皆仏性という言葉で表されるように、道元禅師のようにそうした立場から発せられた悟りの言葉かと思います。しかと自己を確立しようという意思は禅者の場合強いようです。その自己から天地を見るので、帰納的観点や思考法をもつように思います。強烈な言葉としては、「仏に会っては仏を殺せ」とまで臨済禅の対答があります。
宗教の認識と科学の認識をいっしょにするわけには行きませんが、科学も一つ一つの事実を付き合わせて、そこに仮定をもち、論理性と一貫性を見出そうとし結論に至ります。

一方、信仰に基づいて神を信じる立場からは、その意向に沿って世界や歴史や自然や人類の有様を見ます。言い過ぎになるかも知れませんが、神の立場から思考し、見ます。正に演繹的です。
話の都合上、仏教の中で禅を代表させて言えば、神、仏に対してさえも人の立場から見ます。益して、自然観もです。

私は大いに穿った見方をします。天と地において、自己からものを見ることと、他者からものを見るという方法がある限り、両者共に必要ということで、互いに否定する何者もない、ということです。
具体的な事柄の正邪はここで問うのではありません。天からものを見る、地上からものを見る。それが認識の全一に至る道ではなかと思わざるを得ません。

では、例えば裁判において、検事側と弁護士側共に事態を見て、その一致する処が結論かというと、
そうではありません。一部相手の申し立てにも正しいことが含まれているとしても、結果はどちらか一方の審判が下ります。

根本仏教(テーラワーダ仏教)は、視野を天上に向けることは否定したので、横に、人間と自然に眼を向けることに集中しました。しかし、それにNO!を突きつけて、大乗仏教が生まれてきました。
それは、阿弥陀仏に絶対帰依する、というような信仰姿勢、鈴木正三のような一鍬、一鍬が仏への感謝しながら耕すことが仏の業だと教えるようなことも出てきました。演繹的信仰指導のようです。
キリスト教にも、勿論、資本主義の倫理とプロテスタンテイズムのように、信仰と誠実の結果が収益となってゆく、ことを認めて経済行為の動機を励ましていったことは、背後に演繹性を含みながらも、帰納法的に人々の行為を神に向けて激励していったもののように思います。

神を信じる立場から結論します。
即ち、神から離れた人間を考慮して、神の立場からも演繹思考し、人間の立場からも帰納思考を許し、最後にそれらが一致することを「善し」とされたように思います。
これは演繹法でしょうか!
アージュ











posted by バーナードショー at 17:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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