2011年04月19日

宗教の壁 教派の壁を除こう

世界においても日本国内においても宗教はそれぞれ壁をもっています。ある意味それは当然のことでもあります。それぞれの教えと組織を持ちますから、それらが一つの性格と姿を作ります。そうしたことが長く続きそれぞれの伝統になります。仏教の中でも様々な宗派があり、全国組織もあります。
他の宗派の発展に利するようなことは敢えてはしません、交流はしてもです。イエス様の時代もお釈迦様の時代もマホメットの時代も他の宗教があり、そうした信徒あるいは教団から迫害もされました。人間の集団は愚かでもあります。天とか仏とか神とか呼び方や考え方はどうであれ、「超越存在」として畏敬し敬意を払う主たる存在が、宗教団体を作って他者と対抗し、益して信仰の違いによって迫害したり戦争に至るなどは、願うはずもないのに現実に歴史的に起こってきたことは否定のしようも無いことです。

それぞれの創始者ですら願わないにも関わらず、弟子達その後の信者達は何を間違って、そうした争いをするのでしょうか?また、協力と理解し合い、疎通しあわないのでしょうか?

もし現代に宗教の大いなる平和への役割を果たすとするならば、こうした垣根のような障壁を取り払って、互いに行き来し、説教も礼拝も互いに出かけていって、教会において僧侶が、お寺で牧師が、神社で神父が来て礼拝なり、葬祭などをするとするならば、人々の眼ももっと開かれ、そうした地道な努力が平和への基礎を築くことになると信じます。

そして、学者達は各宗教宗派の教理の違いと似た面を理解し、橋をかける研究と実践が必要です。
私は多くのお寺を訪ね歩きましたが、平日はほとんどそのお堂は寂しくがらんとして、使われていませんでした。葬式や法事の時だけのためのお寺であってはいけません。開放的お寺で、いつでも個人が家庭が礼拝できるお堂でなければいけないはずですが、安全の為かお堂は閉じており、仏様は仏壇にはおられないことをはっきりと感じさせてくれます。教会はどうでしょうか?お坊さんを招いて
その語ることに門を開いているでしょうか? そんな話は聞いたことがありません。
何故、そんな壁を作っているのでしょうか?それが神 仏の心でしょうか? 違います。「神も仏もあったものか!」と災害や苦難に合った時に言いますが、そうです。神とか仏とかの違いは無いのです。神も仏もあったものではないのです。同じなのです。しかいs、仏として理解しやすい人は仏で良いのです。神様と言いたい人は神様で良いのです。区別なし!

教会にお坊さんを招こう! お寺のお堂に牧師神父さんを招こう! これが今日のテーマです。
posted by バーナードショー at 15:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月01日

人間共通の苦悩と矛盾

人間、というよりも宗教的に「罪人」あるいは「堕落人間」あるいは「煩悩具足の凡人」とでも言えば良いでしょうか?古今東西を問わず、人間は宗教が説いてきた内部矛盾ともいうべき根源的罪と葛藤しています。
例えば、浄土宗を開いた法然上人は、自らは厳しく僧として自戒しながらも上人の教えを聞いてくる信者にはには、告白してくる矛盾や生活実態を大目に許していたようです。今日の我々から考えれば、肉食や魚を捕って食べることは何ら葛藤を覚える事柄ではないですが、仏教的な観点で、生き物を殺生して生きる糧ともし、食材にすることはそれだけで罪深いということになりますが、そうして生きるしかない人々には優しく接していたようです。しかし、親鸞上人は、肉食妻帯することの前には、人々のみならず、自らも深く葛藤しぬいた挙句、先頭きって肉食妻帯と罪悪深重を表明してそのあり方で浄土真宗を開いていきました。共に、「南無阿弥陀仏」が救いの名号だと説きながら。

一方、キリスト教も、イエス様自身の言葉として聖書にあるように「あなた方はへびの子、マムシの子らよ」と人々に向かって言い、「そのわざを行おうとしている」と悪魔とのつながりを指摘されています。そして、パウロは、「私の肢体には、2つの律法がある」と言って、心に願い思うことと
行う体の方向が葛藤し、戦っていると嘆きを表明しています。クリスチャンならば、そうした内容やキリストを十字架につけたのは誰か、聖書また自らの実態を省みて、罪の自覚をもっています。
昔も今も人間は人間にあらず、堕落した人間の後孫だということです。お払いすれば罪穢れが吹き払われるのではないのです。

話は今日の日本の政治行政司法に飛びます。検察警察司法やマスコミも知ってて対処しないという不作為の罪があります。朝鮮工作員に強制拉致され、密航で日本の法を侵犯して出入国して多くの一般人を朝鮮に連れていった長年の問題を未だ解決できないでいますが、それは、政治家もマスコミも同じ穴の狢です。そればかりでなく、国内で何ら法的罪を犯してもいないのに、数千名の拉致監禁強制改宗に直面している統一教会の篤実な信者たちに対して、全くマスコミや警察、司法、検察、政治行政関係者たちは何ら問題にもせず、手をこまねいて対処していません。北朝鮮にガッツをもって対処するだけの政治家がいないと言わざるをえないのです。だから、被害者の家族が全国を飛び回って講演し、街頭宣伝しても結果がでないのです。朝鮮に拉致された人々へも本当の同情と責任を感じてはいない。大手新聞社は真実の報道を掲げながら、自らは何ら真実に背を向けている実態は何でしょうか?裏表が違う矛盾の実態を見られているのがわからないのでしょうか?
全てを親子問題に還元して、大人としての人格、人権を重視しない日本の司法、警察、マスコミ政治家たちは、長年朝鮮に拉致された問題を放っておいたのと同じ態度です。いつ、どのように彼らは断罪されるのでしょうか? 朝鮮に拉致された問題と同じように、門愛が明らかになったら、追随するマスコミの姿がいつ見られるでしょうか?
これら全て、(堕落)人間、矛盾した人間社会の実態です。
煩悩具足とはこういうことをも言うのだと思います。教典ばかりに罪悪の実態はあるのではないです。矛盾した人間の有様はここそこに見られます。「有難い、ありがたい」



posted by バーナードショー at 17:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月19日

健康と病気の神学(2)

現代世界は、というよりも先進国はというべきかも知れませんが、自然な衣食住ができない、いや敢てしていない為に病気が蔓延しやすい潜在的状況があります。例えば、食事ですが日本は特に問題で、食事から多くの病気の原因を作っているような事態があります。その源は、農業のあり方です。多くの人が分かっていながら、農薬や化学肥料を用いて農作物を作っています。戦後、農家は農薬をいっぱい撒きながら、稲の害虫?や雑草?を退治するために田んぼに撒いていました。あるいは、広い畑で野菜を作っている農家では農薬を畑に撒いていました。
今日では、かなり工夫はされてきていますが、尚きれいな形のキュウリやトマトその他の野菜にもう焼くを使っています。使わない農家は、
無農薬とするなり、販売の仕方に工夫して差別化を計ります。
全国の田んぼに農薬をまくので、夏休みに、川で水泳をして遊んでいたものをいつやら程から遊び水泳ができなくなりました。

都会の主婦は曲がったキュウリを買わないので、八百屋やスーパーマーケットの仕入れはまっすぐしたキュウリを農家の求めるようになりました。こんなことはよく話題になるようになりました。国会においてすらです。
しかし、未だ米や野菜作りにおいて、農薬や化学肥料を止めて、無農薬で作るという農業には一部の農家を除いてはなっていません。
店の棚に並んでいる漬け物や練り物、パンや飲み物、菓子にしても様々な添加物がいっぱい入っています。必要でもないのに赤い色をつけた亜硝酸ナトリウム入りのハム、赤い着色料をつけた紅しょうが、乳化剤などという漢字を使ってその化学物が何か分からないようにしている添加物、もう口に入る多くのものに本来必要でも無い添加物が入って、肝臓に負担をかけ、その他人体に必要でもない毒となる化学物を入れています。これが特に日本でみられる現代病の主要な要因になっているのは明らかです。

その反証に、そうでない支援な完全無農薬米や野菜、魚の食事をすれば、なんと元気になることでしょうか!人間は愚かしい面を多く抱えていますが、これもその一つです。自然食を好む人達が言うように、白米は白い米の粕と書きます。食事の食とは人に良いものです。
百姓とは、百人の女を生かすと赤峰勝人という完全無農薬を実践している人が講演会で話しまた「ニンジンの奇跡」という本その他の本にも書いています。我々がどんなに多くの化学物質が食べ物を通じて入ってきてり、それがアトピーやガンその他の病気の原因になっているかを訴えています。こうした人は他にもいます。多目的微生物用材のEM農法を広めている比嘉照夫琉球大学名誉教授もそうです。あるいは、福岡正信氏もそうです。
国全体として、農薬を使用しないで済む農業を農林水産省は主導すればどれほど良いかと思いますが、農薬会社やその他様々な利害関係からそんな政策は出せないのです。日本の医療費が35兆にもなるのに、病気だらけの日本では将来が明るいわけはないかと思われます。
中国もこうした日本の後を追っているようです。
自然は何か、人体と社会と国家において考え直すべきです。多くの人は分かっているのです。「世界救世教」を始めた岡田茂吉氏は自然な農業に基づいた天国を夢みていたように聞きます。それに関してはきちんと調べていないのでしかとは言えませんが。

言動一致と言います。言葉は真理、正しい考え、意見、教え、にもとづいて行動するならば人間社会はどんなに良くなるでしょうか
病気とは、そうした正しさ、正義、道徳、神のみ言葉、仏の教えから逸脱した状態です。あるいは本来的精神と生活をしていないことから起る状態のことです。そうした病気から回復する身体や社会、国家世界になるのは、正しい方からの真理があって初めて可能かと思われます。病気の人が病人を治療することはできません。健康で本来的医師が病気を直せます。

先ずは、正しい食事が必要です。お釈迦様も八正道でそう教えておられます。正しく考え、正しく行い、正しく努力しなさいと。
人間社会については、そうした内容を完成した人によらなければ良い社会世界はできません。それが誰か?です。キリスト教徒だけがキリストと呼ぶ人ではありません。

人間全体の姿やあり方を正し、教えて頂ける人です。真の先生です。人類は病人ばかりだと考える人は誰でしょうか?










posted by バーナードショー at 20:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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