2011年06月03日

文鮮明先生 自叙伝

「平和を愛する世界人として」という文 鮮明先生の自叙伝が一昨年より発刊されています。
師父 文先生は、韓国の世界的歴史的宗教指導者であるのとどまらず、人類の「真の父母」、「平和の王」であられる。更に言えば、「メシア、救世主、真の父母」として天が認め、自らもそのような称号を話される。
これは仰天動地のメッセージであるにも関わらず、世界は、宗教界は、無知蒙昧として日々の生活をしている。
また別に「平和神経」という世界講演された折折のメッセージをまとめられた本(経典に等しい)には、イエスキリスト、お釈迦様、マホメット、孔子、ソクラテスをはじめ聖賢達が連ねて、文先生がいかなる方であるかを天からメッセージを送ってきている。信じなければ、作り話と思うでしょう。そればかりか、日本の過去の政治指導者や宗教者(高僧といわれる人々)、アメリカ歴代大統領、ヒンズー教の指導者、韓国の歴代皇帝国王、キリスト教の12弟子、仏教の10大弟子たち、ローマ法王達、アメリカのメデイアで著名だった人、などイスラム教の歴史上の著名な神学者達 なども霊界からそうしたメッセージを送ってきて、如何に現代、文先生が御在世中にその偉業を知り、従ってみ旨を行うことが羨ましいか を知らせてきている。

思想哲学は勿論、世界の宗教界、言論界、学会、政界、など様々に長年のご努力で真理と世界の行くべき道を知らせてこられてきたか? 未だ世界は無知蒙昧海に小船を浮かべてさまよっている。
東北大地震どころか マグニチュード100くらいの激震が世界を揺るがすことになることを知らないこの世は、嘆かわしい。
2013年初め、新たな歴史の起源が定立される。予言ではない。

2011年6月3日の独り言。






posted by バーナードショー at 15:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月28日

イエスの涙

ピーター シャビエル著「イエスの涙」を読んでみられることをお薦めします。
前にこれに書いたかもしれませんが、この本は、キリスト教会(カトリックもプロテスタントも含め)がイエスの十字架を罪の購いの象徴として、あるいは首にかけて信仰の証しとしてきたものですが、この小説の中では、多くはないが世界各地で教派を問わず、その十字架を見たり接して「嫌悪感」を生じるシンドローム(症候群)が起こることを題材にしたものです。しかし、これには、特にカトリック教会に対して
突きつけている鋭い課題を含むテーマになっています。

即ち、この「十字架嫌悪シンドローム」を感じる人達はこの現象をイエス自身から来ている啓示だととらえていることに対して、カトリックの聖職者達が一概には信じられず、検証を必要としていることを序文としながら、ある青年が神父に、そしてその青年が学生時代に出会った女性がシスターになってゆく二人を追いながら、その女性もシンドロームを感じるようになることから、そえrが一体何故なのか 十字架自体は一体何なのか?という深い疑問を呈しています。 

十字架は、最初から人類の罪の購いとしてイエス様が受けたのではなく、あくまでも あくまでもユダヤ人のキリスト不信の結果として、
神のみ旨への無知の結果として起きたことであるという正にその象徴が十字架であるために、純粋に素朴にみれば、十字架は神の悲しみ、苦痛と苦悩の象徴であるために、そえをみると気持ちが悪くなり、嫌悪感 吐き気を催す現象となるという事件を題材に展開された小説です。

全世界のカトリック教徒 バチカン、牧師 そのた全てのクリスチャンへの強烈な疑問を投げかけているこの「イエスの涙」の本が
できれば、映画になり、またオペラなどの舞台になって 世界に大きな衝撃をもたらすようになることを願っています。

脚本作家、映画監督、プロヂューサーなどいませんか?




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2011年05月24日

宗教界の交流

以前にも同じことを書いたかと思いますが、 日曜日遊んでいるお寺のお堂で、キリスト教の説教集会を開くことを許すお寺の坊さんが
いないのでしょうか?そんなことを進める坊さんがいたら、その宗派の本山からクレームが来るのでしょうか? それともそのお寺の宗旨に傷がつくのでしょうか? 
「頑張れ 仏教」の本を書いている学者もそこまでは提案していないでしょう。 カフェお寺 とかイベントお寺とか ジャズお寺などはあるようですが、もっと中身に突っ込んだ開放をしてゆかなければ、時代はもう仏教の教えが 人々を導く教えとして光を失ってしまいます。
既にそうなっている向きもなくはないようです。

革命的なあり方で布教していった親鸞や日蓮 道元師から早800有余年 その気概ははるか昔に失われ、色あせているお寺に喝!をいれる
禅寺 禅宗の坊さんはいないのでしょうか? 

キリスト教会もイエス様のみを救い主で、勿論でしょうが、他宗の宗祖もそれなりに尊重することを表し、教会に坊さんを招待する度量がなければこれまた時代ではなくなります。 天界では、イエス様もお釈迦様もマホメットも孔子もいっしょに現代の革新のために働いておられるのに、全く全く知らないで、地上では他宗として 交流できない現実の愚かしさを悲しく思われています。


これが分かる方 なんとかしましょう。





posted by バーナードショー at 23:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月19日

宗教の壁 教派の壁を除こう

世界においても日本国内においても宗教はそれぞれ壁をもっています。ある意味それは当然のことでもあります。それぞれの教えと組織を持ちますから、それらが一つの性格と姿を作ります。そうしたことが長く続きそれぞれの伝統になります。仏教の中でも様々な宗派があり、全国組織もあります。
他の宗派の発展に利するようなことは敢えてはしません、交流はしてもです。イエス様の時代もお釈迦様の時代もマホメットの時代も他の宗教があり、そうした信徒あるいは教団から迫害もされました。人間の集団は愚かでもあります。天とか仏とか神とか呼び方や考え方はどうであれ、「超越存在」として畏敬し敬意を払う主たる存在が、宗教団体を作って他者と対抗し、益して信仰の違いによって迫害したり戦争に至るなどは、願うはずもないのに現実に歴史的に起こってきたことは否定のしようも無いことです。

それぞれの創始者ですら願わないにも関わらず、弟子達その後の信者達は何を間違って、そうした争いをするのでしょうか?また、協力と理解し合い、疎通しあわないのでしょうか?

もし現代に宗教の大いなる平和への役割を果たすとするならば、こうした垣根のような障壁を取り払って、互いに行き来し、説教も礼拝も互いに出かけていって、教会において僧侶が、お寺で牧師が、神社で神父が来て礼拝なり、葬祭などをするとするならば、人々の眼ももっと開かれ、そうした地道な努力が平和への基礎を築くことになると信じます。

そして、学者達は各宗教宗派の教理の違いと似た面を理解し、橋をかける研究と実践が必要です。
私は多くのお寺を訪ね歩きましたが、平日はほとんどそのお堂は寂しくがらんとして、使われていませんでした。葬式や法事の時だけのためのお寺であってはいけません。開放的お寺で、いつでも個人が家庭が礼拝できるお堂でなければいけないはずですが、安全の為かお堂は閉じており、仏様は仏壇にはおられないことをはっきりと感じさせてくれます。教会はどうでしょうか?お坊さんを招いて
その語ることに門を開いているでしょうか? そんな話は聞いたことがありません。
何故、そんな壁を作っているのでしょうか?それが神 仏の心でしょうか? 違います。「神も仏もあったものか!」と災害や苦難に合った時に言いますが、そうです。神とか仏とかの違いは無いのです。神も仏もあったものではないのです。同じなのです。しかいs、仏として理解しやすい人は仏で良いのです。神様と言いたい人は神様で良いのです。区別なし!

教会にお坊さんを招こう! お寺のお堂に牧師神父さんを招こう! これが今日のテーマです。
posted by バーナードショー at 15:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月01日

人間共通の苦悩と矛盾

人間、というよりも宗教的に「罪人」あるいは「堕落人間」あるいは「煩悩具足の凡人」とでも言えば良いでしょうか?古今東西を問わず、人間は宗教が説いてきた内部矛盾ともいうべき根源的罪と葛藤しています。
例えば、浄土宗を開いた法然上人は、自らは厳しく僧として自戒しながらも上人の教えを聞いてくる信者にはには、告白してくる矛盾や生活実態を大目に許していたようです。今日の我々から考えれば、肉食や魚を捕って食べることは何ら葛藤を覚える事柄ではないですが、仏教的な観点で、生き物を殺生して生きる糧ともし、食材にすることはそれだけで罪深いということになりますが、そうして生きるしかない人々には優しく接していたようです。しかし、親鸞上人は、肉食妻帯することの前には、人々のみならず、自らも深く葛藤しぬいた挙句、先頭きって肉食妻帯と罪悪深重を表明してそのあり方で浄土真宗を開いていきました。共に、「南無阿弥陀仏」が救いの名号だと説きながら。

一方、キリスト教も、イエス様自身の言葉として聖書にあるように「あなた方はへびの子、マムシの子らよ」と人々に向かって言い、「そのわざを行おうとしている」と悪魔とのつながりを指摘されています。そして、パウロは、「私の肢体には、2つの律法がある」と言って、心に願い思うことと
行う体の方向が葛藤し、戦っていると嘆きを表明しています。クリスチャンならば、そうした内容やキリストを十字架につけたのは誰か、聖書また自らの実態を省みて、罪の自覚をもっています。
昔も今も人間は人間にあらず、堕落した人間の後孫だということです。お払いすれば罪穢れが吹き払われるのではないのです。

話は今日の日本の政治行政司法に飛びます。検察警察司法やマスコミも知ってて対処しないという不作為の罪があります。朝鮮工作員に強制拉致され、密航で日本の法を侵犯して出入国して多くの一般人を朝鮮に連れていった長年の問題を未だ解決できないでいますが、それは、政治家もマスコミも同じ穴の狢です。そればかりでなく、国内で何ら法的罪を犯してもいないのに、数千名の拉致監禁強制改宗に直面している統一教会の篤実な信者たちに対して、全くマスコミや警察、司法、検察、政治行政関係者たちは何ら問題にもせず、手をこまねいて対処していません。北朝鮮にガッツをもって対処するだけの政治家がいないと言わざるをえないのです。だから、被害者の家族が全国を飛び回って講演し、街頭宣伝しても結果がでないのです。朝鮮に拉致された人々へも本当の同情と責任を感じてはいない。大手新聞社は真実の報道を掲げながら、自らは何ら真実に背を向けている実態は何でしょうか?裏表が違う矛盾の実態を見られているのがわからないのでしょうか?
全てを親子問題に還元して、大人としての人格、人権を重視しない日本の司法、警察、マスコミ政治家たちは、長年朝鮮に拉致された問題を放っておいたのと同じ態度です。いつ、どのように彼らは断罪されるのでしょうか? 朝鮮に拉致された問題と同じように、門愛が明らかになったら、追随するマスコミの姿がいつ見られるでしょうか?
これら全て、(堕落)人間、矛盾した人間社会の実態です。
煩悩具足とはこういうことをも言うのだと思います。教典ばかりに罪悪の実態はあるのではないです。矛盾した人間の有様はここそこに見られます。「有難い、ありがたい」



posted by バーナードショー at 17:23| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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