2011年07月16日

宗教の彼岸性と此岸性

宗教とは何か?と言った難しい問題に対して、神 仏を教え、あの世があることを教えることによってこの世に生きる人生のあり方を説くものだというのは、そう間違ってはいない答えだと思いますが、別に、そうした事も含めていわば内的(無形のといっても良く)真理を探求する道であり、プロセスだとも思えます。従って、信仰をもつことが目的ではなく、信仰によって真理たるものを把握 直観してその実現を計ることに人生の意義があるかと思います。

そこで、宗教学者というか仏教者である「ひろ さちや」氏が書いた本で「仏教講義」ー現代の課題に応える 法蔵館 という著書があります。現代の課題に応える と副題がついていますが、本当に著者が言いたいのは、そんな現代という一時代の この世の問題になんか 答えるものではない!喝!と言っています。氏の主張は誠に快く響くものです。本人も書いているように、宗教学者なり多くの仏教者自身すら
世の中の諸々の価値判断に立って諸問題に対応しようとしている姿をばっさり 切っています。宗教には彼岸宗教と此岸宗教があり、仏教やキリスト教イスラム教は彼岸宗教で、神道や儒教が此岸宗教で、後者こそこの世にあって人の心得とか道徳的態度や自然へ向かうものだと。
従って、仏教があれこれのこの世の常識的価値観に立ってものを言うものではない、と断言しています。何かが役に立つ とか 生きて行く上で立身出世やこの世の栄達に関わるようなものは一切仏教的思考ではない、と言うのです。ひろ さちや氏は大乗仏教の立場に立っていますが、統一原理から見れば、ちょっと違っているのです。彼は釈迦を人間ではなく、仏と見るべきとしています。大乗仏教をしっかりと保持しています。人間 釈迦を見てはいませんし、そうではないと言い切ります。 成る程と或る面私も賛成します。大乗仏教の大乗化した所以はそこに求めなくては成らないと同感です。空だの無だのが本質ではない。しかし、真実は、人間 釈迦牟尼仏で、霊界に歴然としておられる霊人 釈迦がいます。大乗仏教としては、徹底してそれで良いのですが、仏その自体ではありません。超越した無形の光的存在ではありません。それは、霊界にいけば分かることです。

今日の話はそういうことではなく、問題はあるにしても、全く持って大乗仏教の 大乗仏教たる所以をばっさりと明快に述べていることに
私は快い感じをもつのです。

キリスト教は、この世の完成宗教であるべきだったのですが、ユダヤ人の不信仰のために イエス様は霊的魂の救いのみ可能な道を残して行かれたので、彼岸宗教になってしまったことは ひろ さちや氏はご存知ないのですが、それは別に論じる必要があることにして、
兎に角、おおくの僧侶や仏教学者とは一味違った より本質的宗教観をお持ちのようだと関心をむけました。

具体的に 氏の内容に触れていこうと思います。次回から。






posted by バーナードショー at 23:35| Comment(5) | 宗教を学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

EUの母 青山光子

ハインリッヒ・クーデンホフ・カレルギー伯爵の光子夫人 は旧姓青山光子。筆者バーナードショーは恥ずかしくも知らなかっのですが、汎ヨーロッパ主義、後に欧州共同体(EU)として結実することになる主張を展開した人物リヒャルト・クーデンホフ・カレルギーの母である青山光子は、オーストリア帝国の代理大使として日本に赴任してきたハインリッヒ・カレルギー伯爵の落馬に接し、治療と世話に当ったことがきっかけで、オーストリア帝国の伯爵夫人となる。オーストリアに渡り、周囲の厳しい眼に晒されながら、また夫が43歳で死亡することにより、大変な状況の中から次第に誤解と偏見を克服し、優れた伯爵夫人の評価を得ることになる。その7人の子供のうち、次男リヒャルトは、東京で生まれており、母から厳しく育てられた。母・光子は、「人類は皆兄弟」という思想をもっていたという。ヨーロッパの統合を着想したRカレルギーは、本来的な意味の「大東亜共栄圏」や「アジアは一つ」という岡倉天心流の思想もその着想の淵源になっていた、という。

青山光子、カレルギー伯爵夫人;島国日本が時を経て、「EUの母」とも目される立派な母となったことは、神の摂理上、世界の母の国となるべき日本の一つの良き証となる事実です。単にりっぱに子を育てた母というだけではなく、自らも大いに赤十字に加わって人助けをし困った人を助け尽くした女性であったという。ここにも誇るべき日本人がいたとは!   
posted by バーナードショー at 15:26| Comment(0) | 宗教を学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月19日

Juniverse& 日本の無宗教性

宗教学者の島田裕己氏の著書「無宗教こそ日本人の宗教である」(角川書店)という本があります。

日本人が誕生、結婚、正月、葬式などにおいてとる行動様式が外国特に一神教のキリスト教、イスラム教世界からみると奇妙奇天烈に感じられることや一般人が「あなたの宗教は?」と問われた際に「特にありません」とか無宗教と答えることなどに対し、そうではなく、そこには歴史的に育まれて来た日本人独特の思考様式があることを認め、宗教的価値観信仰の違いから戦争や紛争が起こって来たことなどに対して、
何でも受け入れたりする日本人の宗教文化に積極的意義を見出そうと評価しています。

筆者は、昔受験勉強の頃、加藤周一の「日本の文明史的位置」という本の中だったか、戦後発表した「日本 雑種文化論」にひどく共感を覚え、文化人類学を専攻しようと考えるきっかけともなった文化論がありました。日本に歴史的に培われて来た独特の文化の中に、更に明治以後西洋文化文明の成果が切り離せない状態にまで入り込み、なんだか雑種のような様相を呈しているが、そこに独特の価値を認めて行こうといった論旨だったように思います。

筆者も日本人または日本文化は、骨のないイカ、たこのような無脊椎文化 骨無し人間のようにも一部思っていました。これも偏見ですが、上記の如く、神道文化も仏教文化もキリスト教文化も一人の人間の中にごちゃまぜのようになっていて、原則原理のない人生観の持ち主のように一般日本人を考えていました。ところが、島田氏の論は、無宗教のように見えて、ちゃんと判断された評価できる筋があると言います。「和をもって尊しとせよ」という聖徳太子の十七条憲法の精神が現代にも生きているその日本人と日本文化がこれからの世界の平和に貢献するものがあるとの意見に頷くものがあります。

こうした和の心をもつ日本ですが、深いところに柱か原理となるものがあって初めて本当に日本文化や日本が世界の平和の砦になる道が芽生えるのではないかと思っています。その原理とはなんでしょうか? 日本は海に囲まれた自然豊かな和の女性性の文化だとすれば、他方に男性的 骨格的文化の価値と相対する必要があるのではないでしょうか? 統一の原理 これが結論にしたい。




posted by バーナードショー at 18:51| Comment(0) | 宗教を学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月18日

無神論の禅

本源はお釈迦様に罪を問うものですが、一般に禅宗は大乗仏教の中に入れられます。大乗仏教は、それぞれの経典を重んじる宗派により信仰の主と仰ぐ存在の名称は様々でも、弥勒仏なり観世音菩薩なりを信仰するものです。しかし、本来、禅は、無神論で、修行によって何らかの悟りの体験を命とするものです。それは自己と向き合い、対決し、「世界」に対する直観を命とします。あの世の「浄土」を求めて往生を願うものではありません。従って、自己を拠り所とし、普段の自我を離れようとします。そうした修行的態度はとても同感できるものですが、
あの世をばっさり否定し、霊魂云々もばっさり切り捨てます。その思想の淵源はお釈迦様から来ています。

これが致命的に有神論、論ではなく、永遠の無形なる真の父母、創造主を悲しませている仏教の課題です。それを説いたお釈迦様の天上世界における未だ消えることのない、悲しみの負債です。仏教者には考えられもしない驚きの話です。

秋月龍岷(みんは山へんではなく、王へん)の「現代を生きる仏教」平凡社に限りませんが、禅の特徴と上記の仏教主張が明確に語られています。梅原猛の思想に反論しながら、無神論仏教の弱点を明確に表しています。尤も、氏は禅者ですから禅の立場をしっかりと主張するのみですが、弟子は師を越えることはありません。お釈迦様を越えて、「神」「仏」を見出した禅者ではないようです。しかし、秋月氏は言います「私の言う無神論は、近代人が言う自我と世界はあるが、神はいない、というものではなく、無の神、絶対無の場所ということです」と。言葉で言うとあれこれ対立軸がでてきたり、反論であったり、しますが、実はどこからどう本質を見つめるかということにもなるのではないかと思います。それが真我であれ、仏であれ、創造主であれ。禅者が「神」を否定して何か得るものがあるのでしょうか? どこにも安易に考え、安易に寄り添う人はいるものです。
秋月禅師が本物の禅師であることは、「新大乗仏教」を提唱している心構えからも推察できます。
但し願わくば、キリスト教で説く創造主の否定をしないことを。 お釈迦様と同じ悔いに至りますから、いつか「来世」にて

posted by バーナードショー at 19:00| Comment(1) | 宗教を学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月15日

アショーカ王と超宗教政策

「人は自分の宗派だけを崇拝して、理由もなく他の者の宗派を軽んじてはならない。軽視したりするのは、特別の理由がある時だけにすべきである。何故ならば、他の人々の宗派はすべて何らかの理由で崇拝に値するからである。このように行動することによって、人は自分に宗派の地位を高め、同時に他の人々の宗派を助けることにもなる。これと反対の行動は、自らの宗派を損ない、他の人々の宗派にも害を与える。自分の宗派を崇拝する一方で、自分の宗派に対する愛着から、他の人々の宗派を軽んじて自分の宗派の栄光を高めようと意図する人は、そのような振る舞いによって、実際には、自分自身の宗派にもっとも深刻な損害を与えるのである」

この文は驚くことに、2000数百年前のインドのマウリヤ王朝のアショーカ王の勅令です。現代においても堂々と主張するに値する文です。それぞれの宗教 宗派の壁から抜け出せない多くの、キリスト教会、仏教の寺宗派の関係者に問いたいものです。そればかりでなく、マスコミのニュースに乗って宗教やある宗派や教団に対する偏見をもつ多くの人々にも謙虚になって考えてほしいものです。

現代において、上記のアショーカ王の碑文を上回る態度や思考する人がどれくらいいるでしょうか? 過去の帝国や王国においても、宗教政策を如何にするか政治指導者達の心を悩ませた多くの事実があります。豊臣秀吉のキリシタン禁教をはじめ、ローマ帝国でも一応寛容政策をとっていたようですし、イスラム教のオスマントルコにおいても、非モスレムに対して、税金さえ払えば敢えて信仰は問わないようでした。
日本の社会において、最も誤解や偏見にさらされている教団の一つは、統一教会でしょう。真理探究の大学においてすら、思想信条の自由を憲法的に犯している事態がある程です。しかもそれは、旧 国立大学においてです。千葉大学 筑波、大阪大学 岡山その他においてもです。カトリックの上智大学やプロテスタントの明治学院大学その他キリスト教系の大学は勿論異端として 排除的です。

アショーカ王の忠告は耳に届かないようです。愛を説くキリスト教においてです。現代の「魔女狩り」と同じでただ暴力を使わないだでけです。しかし、その中には、拉致監禁 強制改宗して大もうけする牧師や弁護士や拉致業者がいるのですから、もう開いた口がしまらないほどえす。さらに、警察も検察も放置するという意味において、同じ穴の狢です。精神はこれほどまでに2000年前から一切進歩していないことも驚くべき「奇跡」です。
マスコミ メデイアも同罪でしょう。尤も、他者ばかり非難していても仕方なく、信仰者として悔い改めるべき処は悔い改め 世の中に通じる努力が必要ですが、そのプロセスにおいてすらそれを阻む勢力があることは、悲しいものですね。アージュ





posted by バーナードショー at 18:56| Comment(2) | 宗教を学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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