2011年06月18日

無神論の禅

本源はお釈迦様に罪を問うものですが、一般に禅宗は大乗仏教の中に入れられます。大乗仏教は、それぞれの経典を重んじる宗派により信仰の主と仰ぐ存在の名称は様々でも、弥勒仏なり観世音菩薩なりを信仰するものです。しかし、本来、禅は、無神論で、修行によって何らかの悟りの体験を命とするものです。それは自己と向き合い、対決し、「世界」に対する直観を命とします。あの世の「浄土」を求めて往生を願うものではありません。従って、自己を拠り所とし、普段の自我を離れようとします。そうした修行的態度はとても同感できるものですが、
あの世をばっさり否定し、霊魂云々もばっさり切り捨てます。その思想の淵源はお釈迦様から来ています。

これが致命的に有神論、論ではなく、永遠の無形なる真の父母、創造主を悲しませている仏教の課題です。それを説いたお釈迦様の天上世界における未だ消えることのない、悲しみの負債です。仏教者には考えられもしない驚きの話です。

秋月龍岷(みんは山へんではなく、王へん)の「現代を生きる仏教」平凡社に限りませんが、禅の特徴と上記の仏教主張が明確に語られています。梅原猛の思想に反論しながら、無神論仏教の弱点を明確に表しています。尤も、氏は禅者ですから禅の立場をしっかりと主張するのみですが、弟子は師を越えることはありません。お釈迦様を越えて、「神」「仏」を見出した禅者ではないようです。しかし、秋月氏は言います「私の言う無神論は、近代人が言う自我と世界はあるが、神はいない、というものではなく、無の神、絶対無の場所ということです」と。言葉で言うとあれこれ対立軸がでてきたり、反論であったり、しますが、実はどこからどう本質を見つめるかということにもなるのではないかと思います。それが真我であれ、仏であれ、創造主であれ。禅者が「神」を否定して何か得るものがあるのでしょうか? どこにも安易に考え、安易に寄り添う人はいるものです。
秋月禅師が本物の禅師であることは、「新大乗仏教」を提唱している心構えからも推察できます。
但し願わくば、キリスト教で説く創造主の否定をしないことを。 お釈迦様と同じ悔いに至りますから、いつか「来世」にて

posted by バーナードショー at 19:00| Comment(1) | 宗教を学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
創造主を認めるかどうかは、個々人の考え方の違いですが、それに納得できないと、ブッダが実は地獄で苦しんでいるなどと確かめようのない妄説を垂れ流して満足する手合いとなるのでしょう。

私はキリスト者ですが、「あいつは地獄にいる」などとカルトじみた言説を吐くキリスト教徒を嫌悪します。
Posted by at 2011年07月27日 23:46
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