2010年11月19日

健康と病気の神学(2)

現代世界は、というよりも先進国はというべきかも知れませんが、自然な衣食住ができない、いや敢てしていない為に病気が蔓延しやすい潜在的状況があります。例えば、食事ですが日本は特に問題で、食事から多くの病気の原因を作っているような事態があります。その源は、農業のあり方です。多くの人が分かっていながら、農薬や化学肥料を用いて農作物を作っています。戦後、農家は農薬をいっぱい撒きながら、稲の害虫?や雑草?を退治するために田んぼに撒いていました。あるいは、広い畑で野菜を作っている農家では農薬を畑に撒いていました。
今日では、かなり工夫はされてきていますが、尚きれいな形のキュウリやトマトその他の野菜にもう焼くを使っています。使わない農家は、
無農薬とするなり、販売の仕方に工夫して差別化を計ります。
全国の田んぼに農薬をまくので、夏休みに、川で水泳をして遊んでいたものをいつやら程から遊び水泳ができなくなりました。

都会の主婦は曲がったキュウリを買わないので、八百屋やスーパーマーケットの仕入れはまっすぐしたキュウリを農家の求めるようになりました。こんなことはよく話題になるようになりました。国会においてすらです。
しかし、未だ米や野菜作りにおいて、農薬や化学肥料を止めて、無農薬で作るという農業には一部の農家を除いてはなっていません。
店の棚に並んでいる漬け物や練り物、パンや飲み物、菓子にしても様々な添加物がいっぱい入っています。必要でもないのに赤い色をつけた亜硝酸ナトリウム入りのハム、赤い着色料をつけた紅しょうが、乳化剤などという漢字を使ってその化学物が何か分からないようにしている添加物、もう口に入る多くのものに本来必要でも無い添加物が入って、肝臓に負担をかけ、その他人体に必要でもない毒となる化学物を入れています。これが特に日本でみられる現代病の主要な要因になっているのは明らかです。

その反証に、そうでない支援な完全無農薬米や野菜、魚の食事をすれば、なんと元気になることでしょうか!人間は愚かしい面を多く抱えていますが、これもその一つです。自然食を好む人達が言うように、白米は白い米の粕と書きます。食事の食とは人に良いものです。
百姓とは、百人の女を生かすと赤峰勝人という完全無農薬を実践している人が講演会で話しまた「ニンジンの奇跡」という本その他の本にも書いています。我々がどんなに多くの化学物質が食べ物を通じて入ってきてり、それがアトピーやガンその他の病気の原因になっているかを訴えています。こうした人は他にもいます。多目的微生物用材のEM農法を広めている比嘉照夫琉球大学名誉教授もそうです。あるいは、福岡正信氏もそうです。
国全体として、農薬を使用しないで済む農業を農林水産省は主導すればどれほど良いかと思いますが、農薬会社やその他様々な利害関係からそんな政策は出せないのです。日本の医療費が35兆にもなるのに、病気だらけの日本では将来が明るいわけはないかと思われます。
中国もこうした日本の後を追っているようです。
自然は何か、人体と社会と国家において考え直すべきです。多くの人は分かっているのです。「世界救世教」を始めた岡田茂吉氏は自然な農業に基づいた天国を夢みていたように聞きます。それに関してはきちんと調べていないのでしかとは言えませんが。

言動一致と言います。言葉は真理、正しい考え、意見、教え、にもとづいて行動するならば人間社会はどんなに良くなるでしょうか
病気とは、そうした正しさ、正義、道徳、神のみ言葉、仏の教えから逸脱した状態です。あるいは本来的精神と生活をしていないことから起る状態のことです。そうした病気から回復する身体や社会、国家世界になるのは、正しい方からの真理があって初めて可能かと思われます。病気の人が病人を治療することはできません。健康で本来的医師が病気を直せます。

先ずは、正しい食事が必要です。お釈迦様も八正道でそう教えておられます。正しく考え、正しく行い、正しく努力しなさいと。
人間社会については、そうした内容を完成した人によらなければ良い社会世界はできません。それが誰か?です。キリスト教徒だけがキリストと呼ぶ人ではありません。

人間全体の姿やあり方を正し、教えて頂ける人です。真の先生です。人類は病人ばかりだと考える人は誰でしょうか?










posted by バーナードショー at 20:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月16日

健康と病気の神学

WHO(世界保健機構)の健康に関する定義では、ただ身体に病気がないという状態だけではなく、精神的にも健全な状態までを含めた概念としています。
宗教、特に仏教の開祖お釈迦様は、ある意味で「医王」でもあると経典にも表現されています。即ち、お釈迦様は人生に何故「苦」があるのかをお釈迦様なりに(敢えて、なりにと言います)解決しその真理を見いだした、ということです。即ち、苦を抱える人間は、病気に例えられ、その病気の有様とその原因を探り出し(苦諦、集諦)、どうして苦を無くし苦から抜け出すか(滅諦、道諦)を説く。それが病気を処方する医者の有様(医学)と類比されて、その名医ということで「医王」と評されているわけです。

しかし、お釈迦様の「治療と薬」は、ある一定のレベルにおいてしか効能をもたない、と大胆にも言うしかありません。そんな事を言えば、修行し、今も仏門に入ろうとしている多くの国の内外の人々に失礼かと思いますが、お釈迦様の説いた教えに生涯捧げ修行した人達は多いですが、そうした人々は個人で高徳の人はいますが、家庭単位で家族として高徳の家族になった、その後の家系を残したという話は聞いたことがありません。何故でしょうか?それは血筋において、血統問の課題として何ら解決処方が示され実現されていない、という現実です。

お釈迦様自身には、羅睺羅という弟子になった息子がいましたが、彼の子孫が残って仏者として指導する家系になったという歴史はありません。仏教全体の問題課題として、親が真実の信者で子孫も極楽浄土に直通する、といった人達を一人も知りません。これはいかなる他の宗教も同じです。例え、キリスト教であっても、どんなに深くイエスキリストを愛し、十字架にかかる程の信仰があってもその家族や子孫が天国に直通するクリスチャンは一人もいません。何故 何故?? 罪の根本解決ができていないからです。パウロが嘆き表現しているように「私の肢体には別の律法があって、私を虜にしている」という煩悩ともいうべき、罪の思い、心身の根源から罪が抜けきっていないという現実。

本来の人間の姿と天国世界のブループリントがあって初めて心身と人間世界の健康が分かります。本来の人間の姿は、個人ではなく、夫婦と家族のある姿、青写真です。それが神の構造に相対する人間の姿です。従って、健康な状態が分からないあらゆる宗教に根本的な病気に処方ができるわけがないのです。本物の人、本物の家族家庭が現れなければです。
 
本物の人間とは、イエスキリストが一番最短距離のおられたのですが、家族をもつことができませんでした。
真の神学が現れなくては難しいのです。バルト神学もダメなのです。統一神学でなくては。

肉食妻帯する仏教者は、家庭をもっていますが、妥協の産物でしかなく、上位に立つ人ではありません。職業です。キリスト教が暗示してきた「原罪」これが病気の根本ですから、遺伝的罪、連体的罪、個人的罪 これら全てこの根本の病因を取り除かなくては真の「健康」には、人間は人類はならない、のです。この処方をもって来られるのが、再臨の主で、世界から誤解と迫害を受けておられる方です。

その方を見いだす世界の賢者は何処に?
名もなき人々でしょうか?それとも、世界の宗教指導者でしょうか? 政治家でしょうか? その方こそ正に「大医王」でしょう。
世界の人々はもう数年して、その大医王を知るでしょう。皆こぞってその方の治療を受けましょう。








posted by バーナードショー at 23:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月06日

神道の一端

「ひろさちやが聞く 神道の聖典」(すずき出版)という本が参考になり、神道から学ぶことがあります。比較宗教的に神道とユダヤキリスト教の違いを意識して、神道の余りしられていない面を浮き彫りにしようとしていて面白い対話形式の本になっています。

多くの神様が扱われている神道とユダヤ教、キリスト教、イスラム教の唯一の神様とは違うのですが、しかし、どこかの底流でつながっているような感じをもちます。正月は、正月神を家に迎えて共に祝い、食事も家族とともにするのが正月の意味だということです。正月様という神様は祖霊でもあり、元来は農業神でもあるということのようですが、夏のお盆といっしょで、それぞれの先祖を迎えて年に1−2度共に生活する、あるいは祝うということです。神道の一日の始まりは、夕方からということも面白く、聖書の創世記には、神が天地を創る時、「夕となり、朝となった。第一日である」とあります。誰でも夕となり朝となったら、2日目だと思いますが、聖書ではそれが最初の日として第1日だと言っています。神道もそのように考えていたとは、少し驚きです。何故なら、古代ユダヤ教の伝統と神道の文化には、共通性が言われることがあるからです。鳥居の形、烏帽子、塩の使い方、幕屋と神輿などです。

系図的には、天の御中主の神からずっとイザナギの神から天照大御神そして、神武天皇に始まってずっと今の天皇に至るまでつながっていますが、ユダヤ教においても、天地創造の神に創られたアダム エバ(人類始祖)に始まり、増え広がりながらも、中心的にはイエス様までつながる?流れがあります。勿論、イエス様は聖霊によって身ごもったとあるので断絶はしているのですが。

韓国の人々は、正月や秋夕(日本のお盆に当たる)に、大挙して田舎に帰り、やはり先祖を祭り、迎えるという伝統があり、それは必ずしも儒教だけの影響ではなさそうです。民族の底流にある古思想のようだと思います。また正月様という神と共に食事をもつ、ということも重要な伝統です。日本ではこうした伝統思想はすっかり無くなってしまい、ただ1年の始まりだから、という考えばかりのようです。その大衆化した行動が、大晦日に始まる神社詣でとなります。

しかし、宗教や民族を越えて、本来どう神をとらえようと、神と共に生活し、衣食住を共にするというのは、人間本来の姿勢、態度、考えのようで、そうした共通事項にもっと眼を向けて良いように思います。

日本の歴史は、仏教と神道が複雑に織りなして、人々の生活や思想、時には戦いを起こしてきました。DNAの如く二重螺旋のように歴史を綴ってきましたから、日本の歴史を研究する内外の研究者は、どちらにも目配せしなければ、片手落ちになるのを感じるのだと思います。

個人的には、神道の白装束は、何か清楚な感じで好ましく感じられます。余り自己主張しないのが神道の良い面だと思いますが、その姿勢を持ちながらも、崩れる社会に意見を言う課題もあると私も考えます。













posted by バーナードショー at 18:31| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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