2010年10月27日

天上と地上からの思考

私は、天地創造の神の存在とその創造そして生きて?働いておられることを信じる立場ですが、一応それは背後においておきまして、
人間の思考や認識方法にも、帰納法と演繹法があります。勿論聖書を始めキリスト教的思考は、神からの演繹法をとっていると言えます。
そして、仏教は、釈尊が霊界を尋ねることを禁じたために、原始(根本)仏教は、人間の立場から如何に人生の苦痛を克服するかに重点がおかれています。大乗仏教の中ですが、禅は特にその傾向があるかも知れません。即ち、己の本分、本姓、本来の面目を喝破悟ることが重視されていますから。
自然観も、山川草木悉皆仏性という言葉で表されるように、道元禅師のようにそうした立場から発せられた悟りの言葉かと思います。しかと自己を確立しようという意思は禅者の場合強いようです。その自己から天地を見るので、帰納的観点や思考法をもつように思います。強烈な言葉としては、「仏に会っては仏を殺せ」とまで臨済禅の対答があります。
宗教の認識と科学の認識をいっしょにするわけには行きませんが、科学も一つ一つの事実を付き合わせて、そこに仮定をもち、論理性と一貫性を見出そうとし結論に至ります。

一方、信仰に基づいて神を信じる立場からは、その意向に沿って世界や歴史や自然や人類の有様を見ます。言い過ぎになるかも知れませんが、神の立場から思考し、見ます。正に演繹的です。
話の都合上、仏教の中で禅を代表させて言えば、神、仏に対してさえも人の立場から見ます。益して、自然観もです。

私は大いに穿った見方をします。天と地において、自己からものを見ることと、他者からものを見るという方法がある限り、両者共に必要ということで、互いに否定する何者もない、ということです。
具体的な事柄の正邪はここで問うのではありません。天からものを見る、地上からものを見る。それが認識の全一に至る道ではなかと思わざるを得ません。

では、例えば裁判において、検事側と弁護士側共に事態を見て、その一致する処が結論かというと、
そうではありません。一部相手の申し立てにも正しいことが含まれているとしても、結果はどちらか一方の審判が下ります。

根本仏教(テーラワーダ仏教)は、視野を天上に向けることは否定したので、横に、人間と自然に眼を向けることに集中しました。しかし、それにNO!を突きつけて、大乗仏教が生まれてきました。
それは、阿弥陀仏に絶対帰依する、というような信仰姿勢、鈴木正三のような一鍬、一鍬が仏への感謝しながら耕すことが仏の業だと教えるようなことも出てきました。演繹的信仰指導のようです。
キリスト教にも、勿論、資本主義の倫理とプロテスタンテイズムのように、信仰と誠実の結果が収益となってゆく、ことを認めて経済行為の動機を励ましていったことは、背後に演繹性を含みながらも、帰納法的に人々の行為を神に向けて激励していったもののように思います。

神を信じる立場から結論します。
即ち、神から離れた人間を考慮して、神の立場からも演繹思考し、人間の立場からも帰納思考を許し、最後にそれらが一致することを「善し」とされたように思います。
これは演繹法でしょうか!
アージュ











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2010年10月24日

一つになる思想

人と人、民族と民族、国家と国家が互いにけんかをし、いがみ合う、対立し戦う、そこには様々な理由があり、互いの主張もあります。
基本的には、自分(自国)の利益や名誉、権利を侵害されたという具体的な用件があります。そうした内容を清算するなり、謝罪するなりしなければ、その間の関係を修復することは難しいでしょう。日本人には知られていない概念があります。「蕩減」という言葉です。「本来ある位置や状態が失われた時、それを元通りに修復しようとする時、そこに何らかの埋め合わせなり償いをすること」を蕩減と言い、その為に必要な条件を蕩減条件と言います。

日本と中国の間に起きている尖閣諸島をめぐる問題も、そこには歴史的な感情が混じっており、領土主権は日本のものとしての正統な答えがあったとしても、中国の人々の心を内部の権力闘争の故に煽ることがあるにしても、過去の歴史的な所業に対する非難感情もあって、彼らの行動になっていることもあるでしょう。
主イエスキリストは、「汝の敵を愛せよ。自分の愛する者を愛したからとて何になろう。」そんなことは犬猫でもしていると。人にはそれぞれ上下や品格の差など人間性の違いがあります。民度の歴史的なレベルやイデオロギーの違いがある中国の民衆にそれを要求できるはずもなく、さりとて、日本の政治家やマスコミや評論家や国民に、日本人に敵対するする中国のあり方を愛せよ、とも公に言うこともできないです。親子兄弟げんか、友達との間のけんかならば、時間がたてばまた元通りになりますが、互いの距離が遠く海を隔て、陸地を隔てた距離にある場合、更にイデオロギーが大きく異なる場合、感情のもつれが事柄を一層複雑になり、面子の問題名誉、互いの権利の主張などが絡まって、絡まった糸を解きほぐすのは容易なことではなくなります。

しかし、基本的に何が根本問題なのかを見極めた上で、その間を埋め合わせる条件を見いださなければなりません。いつかは。
埋め合わせの根本は、やはり心の問題になるに違いありません。何故なら、人間の本質がそうだからです、と言い切ってしまうのですが。
世の中は目に見えるものと目に見えないものから成り立っていますから、償いも、仲良くなる方法も二面性を伴うことになります。
だからこそ、国連も諸問題の歴史的な解決に二面性をもった機能が必要で、だからこそ宗教者など精神面を扱う人々が行う機能の国連が必要で、それを上院として創設しようという動きがあります。

マスコミに左右される宗教者であっては困ります。それぞれの立場で本質を見る眼をもった人で構成される国連機能。

国民一般の代表だといっても今日あるような日本の「検察審査会」のような素人が判断する機能とは違います。国民目線と言っても、そのレベルが問われます。地球目線、歴史目線、宗教目線が必要です。最後はそれぞれの究極者に祈り、尋ねる姿勢をもった人々でなければなりません。いつかできるであろう「世界政府」もそんな政府である必要があるのではないかと信じます。








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2010年10月17日

検察審査会の判断?

何かのために人を選ぶことにおいて、昔のユダヤの伝統には、神が働くと考える方式がありました。カトリック教会においても、枢機卿の中から教皇を選ぶ際もコンクラーベという方式で選びます。また、我々の社会で、ある一定の人数の中で、過半数なり多数を得た人が何らかの代表に選ばれたりします。統計学において、国民の意識調査なり、何らかの声を反映する調査において、無作為に選ばれた人達に電話するなりして、その有効回答率を出し、その中身を公表したりしています。それが国民大多数の方向性なり意見を遠からず反映していると見ることに信用性があるとします。

先日、民主党の小沢元幹事長が2度の検察における不起訴に対し、無作為に選ばれた人々が構成する検察審査会が2度に渡り、起訴相当との結論をだしたので、起訴され裁判で争われることになりそうな状況ですが、小沢氏側が何か不当を訴えていますので、どうなるかははっきりしませんが、小沢さん本人にとっても、プロの検察が詳細に事情聴取してそれでも灰色かもしれないとしながらも、不起訴の結論にしたものを素人代表の11名の人達が何をかいわんや、という気持ちがあろうかと思います。しかし、そこには素人であっても、国民の常識が働き、必ずしも専門家の理論が悪を浮き彫りにできるとは限らない、という「正当性」を主張するのかもしれません。

別に、もう一つ検察審査会の決定について疑問に思うことがあります。「統一教会」の拉致問題に関し、数千人という多数の被害者がある中で、代表的に後藤さんという人がその検察審査会への訴えをしたにも関わらず、審査会は起訴に当たらないと却下したという結果になりました。事情を知るものとして、奇々怪々の結果だといわざるをえません。親兄弟に12年もの間拉致監禁されて、キリスト教会牧師の犯罪的助言に踊らされた?親兄弟の有様は、30歳前後の成人に対する諸行とも思えない強制監禁であり、これが犯罪に当たらない、親子の問題だとして起訴却下した検察審査会は、判断力を疑わざるを得ないものです。
アメリカでは、幼児を一人車の中にしばらくでも置き去りにした場合でも、親は警察に連行されます。年齢に関係なく人権重視が明白に現れています。いくら親子関係だとしても、ある人数のキリスト教会牧師と脱会屋ビジネスをやる人物の助言で多くのお金を払い、彼らに儲けさせ、しかも自分の30歳にもなった子供の人権と人生を奪い監禁したことが犯罪にならないこの国の司法と検察、検察審査会なるものの正当性を疑うのもやむを得ないかと思います。統一教会がどうだ、という問題ではなく、こうした親子の関係にかこつけ、教会の評判を背景にした審査会の結論は、いかなる判断に基づいてでてきた結果なのか、小沢氏も聞きたいでしょうが、そこは全くベールに包まれ、審査会メンバーの人権?保護?を理由に決して明らかにされません。闇の中の判決のようなものです。後藤氏は、国連人権理事会でも、多くの資料を提出し、人権蹂躙に当たる内容がこの日本に沢山あることを提起し、法務省にもその資料は行き届いています。

150年余り前に一隻の黒船が徳川幕府と多くの日本人に衝撃を与えました。日本は、外圧がなければ体制が変動しないようです。
統一教会が「霊感商法」だの合同結婚式だのと、日本のマスコミが与えて来た誤解の数々、勿論霊感商法と言われてきた内容には全部ではないにしても、悪しき行いがあったことは事実でそれははっきり審判されるべきですが、そうしたメデイアの与えて来たイメージは大変日本社会において教会にとって損なわれたものが大きかったのです。それら外の世界からその事情をしりつつも、この人権侵害については、数千人の良心的信者のその後の人生をかけた正しい外圧が必要と思います。

検察審査会が何も正統だと誰が保障する内容があるでしょうか?事柄に全く白紙だから良いのでしょうか? 検察も可笑しいですが、審査会も可笑しいと思わざるを得ません。

天を仰いでいつか正義が通ると信じるのは小沢一郎氏も同じでしょうか? 彼にお金の誤魔化しが無ければそうかもしれません。
この辺で民主主義の限界に深く疑問を呈する必要が大いにあると思います。神様の摂理は次に進んでいるのではないでしょうか!










posted by バーナードショー at 16:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月16日

自然物の所有権

今、名古屋で国連生物多様性会議が行われています。
結局、潜在的に病原体までも含む諸々の資源を持つ可能性の大きい発展途上国側と先進国側との得られる利益配分を巡って対立要求の構図が強いことになっています。アマゾンのような熱帯の広大な森林をもっているような国は、土壌や森林などにどんな将来開発可能な資源の要素が存在しているかもしれないので、予め国外に持ち出されないように、あるいは持ち出す際には登録し、良い結果がでた場合の利益配分をえられるように主張しています。

人間世界は、国境を区切り国を建てます。従って、その国民の利益になるようにもつ資源を利用する権利を有するのは当然と言えば当然です。ニュースによれば、コロンブスの時代からアフリカから西欧アメリカなど日本もでしょうが持ち帰って利益にしたものの利益までも配分せよ、との要求する声があるそうです。これはいくら何でも厳し過ぎ、過大な要求かと思いますが、今日まで一方的に搾取されてきたアフリカ、中南米、アジアなどからしてみれば、そこまでも言いたくなる気持ちは分かります。実際、エゴに基づきそのように行動してきたことは余りに多いはずですから。

しかし、そこまで言うと世界は混乱します。闘いになります。科学技術を発展させて、今日の文明を築いて来た成果は小なりとはいえ、アフリカ諸国にも行き渡っています。携帯電話は相当程度使用されています。そして、世界を平和の方向にもってゆくべき21世紀でもあります。
以前、「神の下の一つの家族」世界について言及し、神の下の国連ということも述べましたが、人間が、個人として、国家として所有する権利が正しく行使されなければ戦いが始まることは歴史が教えてきました。
環境倫理という学問が近年発展してきました。生命倫理などもあります。自然や環境にたいして人間活動のあり方を考える学問ですが、これにもう少し宗教的観点が加わると良いのではと私は思いますが、学問の中に宗教は持ち込めませんが、しかしそのビジョンだけは持ち込める可能性は追求したいと思います。すなわち、土地も海も森林も河川も人間が造ったのではない自然 万物に関しては余り所有の権限を声高に主張しないということです。「始めに神は天と地とを創造された」と聖書にはあります。聖書を信じる西欧世界にしては、自己所有の主張をして発展してきたのも妙なものですが。アフリカにあるものもアマゾン河川にあるものもシベリアの針葉樹林地帯にあるものも一切人間ではない、「神」が与えたものという思想が確立すれば、上記の自然資源の所有の問題も解けてゆくはずですが、人間精神の発展と大いなる啓蒙の時代が再びこなければならないかと思います。

全ては、世界と人類の福祉と平和のために利用使用されるならば、解決する事柄です。そして、神の栄光のために。
生物多様性の会議も温暖化防止の国連会議も途上国と先進国の対立は超克されなければなりません。お互いの為に生きる原理のためにも。








posted by バーナードショー at 22:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月10日

自然保護の十戒

明日から名古屋で、国連の「生物多様性に関する国際会議」いわゆるCOP10が開かれます。様々な地球上の植物 動物の保護と利用に関する
国際的取り決めをする会議です。これもまた先進国と発展途上国の対立があります。未利用の生物が役立つかもしれない医療や農業などの分野にそれがもっているかもしれない遺伝子やその他を用いて先進的技術や医薬に役立てようとして、先進国があまり途上国の制約を受けないで利用したいというある種のエゴがあります。逆に、途上国は、それらの資源が勝ってに使われないように、あるいは使われる時にはその所有権を主張し、開発された薬品のビジネスや開発された商品からの利益をしっかり回収したいという願いがあります。それをどう調整するかに会議の行方がかかっています。

人類は、だれにも払うことのなかった空気、海水淡水などの利用、森林の利用、などにより生きてきました。無償で与えられていたようなものです。資源の有限性が意識されるようになってから、やっと本当は稀少資源であることに人類は気がついて、国際的にあれこれ議論するようになりました。

環境考古学者の安田喜憲氏がユダヤの律法である「十戒」からヒントを得て、自然「十戒」のようなものをその著書に示しています。
面白いのでここに十個取り上げてみます。
1。あなたは、自然の中にも神を見つけなければならない。
2。あなたは、自分のためにのみ、人格神を刻んだ像を作ってはならない。
3。あなたは自然にいつも呼びかけなければならない。
4。自らが安息日をとるように、自然にも安息日を与えなければならない。
5。あなたは父と母を敬うように自然を敬わなければならない。
6。あなたは、自然の生物をむやみに殺してはならない。
7。あなたは自然も生物も家族の一員として大切に愛さなかればならない。
8。あなたは、自然の豊かさを踏みにじってはならない。
9。あなたは、自然に対して嘘をついてはならない。
10。あなたは、自然を不必要に貪ってはならない。

いずれも肯定したい内容ばかりです。特に1番などは、自然の中に神を見いだす、という内容は自然神学にも通じる意味深長な内容のように思います。
日本の特に戦後の社会政治経済は、上記の内容を突きつけられた時、耳も心も痛いものばかりだと思います。東京の空から23区を見た時、皇居と代々木公園など一部が緑として見えるけど、いわゆる市街地はビルや家々ばかりです。ワシントンの様に森の都を目指すのでなければ、今後都会生活は疲れる場ばかりで、本当に人が住む場として相応しくないでしょう。益して、そんな処に神を見いだすのは難しいのだと思います。私が住んでいる江戸川区はそえrでも未だ木々が通りに多く植えられており、区政として住民一人につき5本以上の木を植えて来たということです。感謝。

砂漠には砂漠としての価値と意義があるでしょう。しかし、砂漠化する/しようとしている所には工夫をして樹木が生えるようにして行く方が良いと思います。人の住む所は、やはり文化的で自然が豊であるような環境作りが心豊に暮らす鍵でしょう。
皆で考え、投票や政治に生かしていくべきかと思います。身近な所に政治はあります。こころもあり、宗教もあります。
では。
posted by バーナードショー at 21:44| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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