2010年07月26日

国境の便益と不都合

ありふれた言葉ですが、「鳥は国境に関係なく移動し生活する」。この地球の上を境界を区切って生活するのは、万物の霊長である?人間様の昔からの生き様です。むかし、スペインとポルトガルが2大勢力を誇っていた15世紀頃、ローマ法王の仲介で、世界を2分してお互いの勢力範囲としました。
勿論それよりはるか昔から人間は、国の領土を決めて、その中で暮らし、それを犯す勢力には戦争で立ち向かいました。21世紀今日でも、それは変わらず、地球上に200カ国前後の国々が自国の領土を確定し、それぞれ統治政府を作って、国連にも参加し、自国の安寧を計っています。

少しでも、いや大いに良心的な人々は、医療を受ける権利は国境の必要性よりも優先されると、「国境なき医師団」を作り、世界中で活動しています。
株式会社で利益を目的とするのではなく、人の命を救おう、病気から救ってあげようとするのですから、NPO(非営利団体)になります。

そうだ!こうした国境なき活動団体や理念がもっと、もっと増え、世界の困っている人々の為に活動し、名誉も高まり、より多くの国々や人々が賛同し、国境の意味を下げてゆくことに目覚めて行くことが平和の達成に貴重な業績になると思えるのだが、国境に関係ない、宗教者や指導者、宗教団体が率先すべき課題ではないでしょうか?
何より、神様が仏様がそれを望んでいるのではないでしょうか?どの宗教の教祖、創始者もそれに同意するのではないでしょうか?

国境という区切りがあって、便宜が図れるのは、感染病の広がりや犯罪の広がりを比較的狭い地域に押さえ込みが可能なことです。悪や災難は早い時間に閉じ込め一掃しなくてはなりませんから、その点では各政府なり主権が早く行使しやすい区切りとなることは比較的良いこととできることでしょう。

21世紀、今や200もの国家があることは、民族独立自立で、ある意味良い面もあるのですが、地球の上から見れば、恥ずかしい実体でもあるのではないでしょうか?壁を作り、塀を作り、他者を隔て、いちいちパスポートを作って見せて通過しなければならないこの現実は何でしょうか?
鳥に国境が見えるのでしょうか? ありません。そんなものは無いよ、と鳥は叫んでいます。世界で最も先鋭な国境の壁が朝鮮半島の38度線です。
これを如何にして平和裏に崩すか、そう遠くではなさそうです。人間が万物の霊長としての資格を取り戻すのは、この国境を撤廃してからでしょう。

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2010年07月20日

中心とは

物事には基本的に全て、中心があります。中心が定まって全体なり、環境が落ち着きます。それは、太陽系の太陽から原子の中の核のように。
国は政府があり、政府がしっかりとし国民の為になる政治をすれば国は安泰や発展の条件を作ります。細胞にも機能の中心核があります。

信仰にも正に仰ぐ中心が、浄土系では阿弥陀仏、真言宗では、大日如来です。2つの超越者を仰ぐことはありません。君臣関係でも昔から、「二君に仕えず」として、主人をあちこち変え仕えることを良しとしませんでした。
円には中心があります。これは、宇宙や世の中全て、中心存在が全体や周囲の価値を決めたり、存在までも決めることを表しているようです。

文化文明論においても、フィリップ・バグビーという学者が中心文明に対して、周辺文明論を展開しています。中心が2つ現れようとすれば必ずそこに相克、戦い、対立、排除の動きが出てきます。人間社会において明らかです。一つの国に、大統領が2人、あるいは首相が2人存在することはできないし、会社に社長が2人いることはできません。学校に校長が2人要りませんし、議会に議長が2人要りません。とりわけ、歴史上、帝国や様々な王朝において、国王の位置を脅かす者がでてくる時、国王は排除の力が働きます。日本の歴史上でもそうした例は沢山あります。

中心は1つであるのが真理かと思いますが、華厳経典では、一即多、一即一切、多即一と言います。即ち一つのものの中に一切が含まれ、多くの種類があるように見えて究極は一つだ、と教えるものです。一つの中に多様性がある、とも言えるかも知れません。

そこで、前に書きました「神の下の一つの家族」が人類の目指す究極のように書きました。究極の中心は、人間ではなく、いつでもどこでも永遠に存在する真実の父母格の神であり、いかなる民族、人種を問わず、一つの家族となることが世界平和の目指すビジョンです。一即一切。

故に家庭において、夫と妻または父と母が愛で一つになった姿が理想家庭であり、それぞれが自己を主張すれば、子供に影響してきます。中心としての親は一つであるうように運動できれば、それが夫婦の「和動」と言います。

修身斉家治国平天下は、どの段階においても、中心が一つに貫かれた姿かと思います。如何?










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2010年07月17日

宗教と政治

昔から政治と宗教は様々な相克を繰り返してきました。日本においては、仏教導入の過程が国家が受け入れることを巡って、物部と蘇我氏が戦い、中国へ国家が僧侶を派遣し、いわば政治が宗教を導いたような形となり、奈良時代にあっては、南都六宗の力から国家権力が敬遠する意図で、平安遷都もし、朝鮮半島国家においては、仏教が高麗王朝で立つまでは、尊敬される高僧はいても、仏教が政治を動かすことは無かったと思われます。寧ろ、天の意向を伺うシャーマニズム的宗教が国王を動かしたのかも知れません。

中国の唐末においては、武宗の時、キリスト教も仏教も弾圧されて、キリスト教(ネストリウス派)が中国から消滅するくらいの弾圧を受けたという。

西洋においては言うまでも無く、十字軍を巡るキリスト教とイスラム教徒側の戦争が繰り返され、カトリックとプロテスタント、あるいはイギリス国教会側などとの戦いや政治闘争などが数多く見られた。

現代では、共産主義国家が宗教を嫌って、宗教を弾圧し、人々に心から信仰を無くした。アメリカは、信仰に立って大陸を脱出した100余名のプロテスタント信仰者達が建国精神を作ってできた国です。従って、基本的に信仰の自由を犯すものへの反対は厳しい。

今日、日本では、創価学会は公明党を作り、政治に一角を占め、他の法華経を主とする宗旨の仏教団体も民主党を支持したり、自民党を支持したりしています。宗教と国家がこのように関わりあっています。

本来、宗教は人々に心の正しいあり方を教え、あの世の実在を知らせ(仏教は違いましたが)、執着を離れ、生きとし生けるもの全てを愛し、他者を慈しむ世界を教えるもので、それらは、人間の幸福につながるものです。
外形的、物質的な欲求を満たすものではなく、それはそういう方法を追求する科学や政治と手を携えて築き上げるもののはずです。その術が難しく、誤解があり、時代の違いから、他者をよく理解できないことから偏見が生じてきました。

「もったいない」
政治は宗教なしでは、道が正されない、宗教は政治なくしてその帰するところを実現できないのですから、和解と一致と超宗教と超政治的思考が必要な時代になっていることを気づくべきかと思います。

世の仏教の大家はいかんせん?
牧師は何をかせん?













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2010年07月15日

時の感性

中学3年の夏休みだったか、吉川英治による「三国志」3巻を夢中で読みました。その戦いぶりを表現した豪快さに感嘆しながら、表現の大きさに圧倒されたものです。
ところが、よく様々な人がものの本で、インドはもっとその表現が度を越していて、狭い国土に住む日本人には到底表現しえない程の時の長さ、物の大きさなどで表現すると言います。
インド人の輪廻思想からくるのか、時間に対する感覚の違いは、国民の生活における時間や歴史感覚にも現れているようだ。千、万、億、兆、京くらいがせいぜい日本人の単位思考の範囲かと思われるが、インドでは、不可思議、無量大数までゆく。

イギリスの「歴史の研究」大著を書いたアーノルド・トインビー博士が、数千年の文明のあちこちの違いなど同じ時代の違いに過ぎない、としているが、それ以上にインド人たちは、歴史の時間の過ぎ行くことには、今も昔も変わらない、同時代くらいに扱う度量?の広さがあるようだ。誰でもよいが、有名なところでは、仏教に帰依しインド中に仏教を広める努力をしたというアショーカ王がいつ生まれたかについて、5−6百年の違いで表記されることも何でも無い?らしい。
一方、中国は、歴史の記録魔とでもいうべく、それぞれの王朝で事細かく何があった、いつどこで何があったと書記を重んじてその記録を残しているので、歴史事実が大体正確にわかる。

聖書には、「1日は千年の如し、千年も1日の如し」とある。人の生涯も年をとってみれば、
あっというまの出来事に過ぎない、と仏教でも教えてきた。従って、あれこれ拘るな、執着を持つな、と。時間は二度と戻る事の無い一直線か、何度も同じところに戻り、回転する輪廻か?人の人生は、幼少年壮年を経て白髪になり、肉体は衰え、時がたったことを実感します。
しかし、人間は6000年前も食べて、寝て、起きてという同じ暮らしを繰り返しています。

諸行無常、と捉えるべきでしょうか?
聖書の「伝道の書」にもあるように、全てのことは行われ、試みられ、一切は空の空として、
神を恐れ、箴言の如く、故に、汝の若き日に汝の造り主を覚えよ、で帰するのが良いでしょうか?
昔も今も派閥を作り、派閥グループに別れ、労働者だ、経営者だ、共産主義だ、民主党だ、
野党だ、のと力と勢力、権力志向しています。面白いことに、韓国歴史の高麗王朝4代光宗が
奴婢を全て解放して全て平民にするという政策を実行して、豪族の力を削ぎ、王一人権力をもつ志向をしています。

人間の一切の差別や貧困を超越して、ただ神一人、または仏一人のみを頂き、その下に万人兄弟姉妹の家族になる以外に、上の争いが止まないだろうと思います。










 
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2010年07月10日

神の下の一つの家族

「神の下の一つの家族」
古代ローマの歴史小説を多く書いている女性作家の塩野七生さんは、新書版の著書の中で、「古代ローマ人達は自分たちの帝国を家族と読んでいた」と書いています。それがどのように使用された言葉なのか詳細は分かりませんが、ローマ帝国の誇りとその意識の広さを感じます。

昔、テレビの宣伝で「世界は一つ、人類は皆兄弟姉妹」というのがありました。宣伝の背景はともかく、正しい理想を示しています。
そして、私も今日、「神の下の一つの家族」運動とそのビジョンに賛同し行動する一人になっています。人類の上に立って、父母として厳存される神の下に、我ら人類は人種、国境、民族を越えて皆兄弟姉妹だというビジョンを諸々の壁を突破してゆこうということです。その最も簡単明瞭にして、結びつきの分かり易い「家族」というテーマの実現です。

父母がいて、兄弟姉妹がいて、あるいは祖父母がいて、あるいは孫がいて、そうした立体的縦横の関係のあるまとまりとして、世界人類が共同生活扶助公益の人生を送る、人類が意識の背後で皆願うことでした。

その原初、家族を破壊的なものにしたことを聖書は暗示しています。不倫な愛と嫉妬と殺人によってです。以後、人類はどんなに世代が下り、多くの民族が生じようとも、そこに誤解と疑心と闘いが生じ、今日までの世界が形成されてきた、という歴史が現れてきたということです。一方的偏見でしょうか?

家庭から始まる世界が共生、共栄、共義の方向に向かい、「家庭」の中で、お互いが助け合う関係の中に、犯罪が起るでしょうか?もし起らないとすれば、裁判所は不要、検事や弁護士も不要です。お互いが育った関係を知り、一つの無形と有形なる父母がいるとすれば、お互いの関係を妨げるものがなく、隠し事のない、家族世界となるということです。

塩野七生さんによれば、ローマ帝国は異民族にもローマ市民権を与え、属州となった例えばユダヤの地にも一部の人には市民権を与えました。パウロがそうでした。それに比べ、大英帝国は、植民地を収奪はしても、そこに生きる人達の一部にも英国市民として優遇はしなかった、もししていたなら、ガンジーも英国市民として取り込むことになったでしょうと。家族の概念の延長拡大をしたかどうかということにもなります。

現代においても、家族、家庭は世界的テーマとして重要だということです。人間世界ですから。




posted by バーナードショー at 09:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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