2010年04月20日

マオリの伝統

ニュージーランドには、イギリスからの入植者が来る1000年も前から原住民が住んでいました。マオリ族という人々で、私はマオリ出身の女性声楽家 キリテ・カナワという歌手を20年以上前に知りその女性がマオリ出身の歌手だと知ってから、白人に近いようなポリネシア系のマオリ族を知りました。

先日、マオリの少女を主人公にした映画DVDを見ました。「鯨に乗った少女」という題名だと思います。幾らかストーリーが似たものとして、宮崎 駿のアニメ「風の谷のナウシカ」を思い出させます。ナウシカは最後に「風の谷を救う人」として昔からその出現を信じてきたおばあさんによって、認識される少女ですが、上記の映画は、マオリ族のある村の酋長のようなおじいさんが、同じように自分達の村に伝わる希望の星となる「少年」を見出そうとして、あれこれとその才能を見出そうと子供達を試験し育てますが、誰もそれに該当する子がいなかったので、失望落胆するが、かつて期待を託した息子も画家となって欧州にでかけてしまい、その息子が生む子に期待したが、女の子であったことで落胆も大きかった。しかし、ある時、鯨が波打ち際に何頭も打ち上げられて、村中で鯨を海に変えそうとするが、できず落胆していると、
主人公少女「パイケア」が、鯨の大将に心が通じて海に乗って帰ってゆき、そのまま帰らぬ人になるのだが、そこでやっとおじいさんも気がつかされる。既に時遅しだが、自分の誤った認識を恥じると共に驚きがある、という話で、ナウシカと似ている。

話が似ているというのではなく、アメリカのインデアンや南米のインデイオ、アフリカの部族などにもあるが、高等宗教と言われるキリスト教や仏教、イスラム教ばかりでなく、そうした自然宗教を持つ人々の社会の間にも、本質的魂の世界、霊的感性、物事の本姓といった世界を垣間見ることができるし、また大切な何か共通の精神的世界があることを教えられるようです。

ハワイの伝統的癒しのすべである「ホ オポノポノ」やアメリカインデアンのホピの伝統 なども尊重すべき内容があります。そういえば、わが国の神道にもそうした自然の中の貴重なものが育まれてきたように思います。皆さんは如何?
posted by バーナードショー at 11:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月10日

自然神学の思考

日本には自然の様々なものに神が宿る、という神道的な信仰から来る自然観があります。いや、それだけでなく、大乗仏教には、禅にはというべきか「山川草木悉皆仏性」と言います。自然の個物の中に仏性がある、というのはそれだけで意味深いものがあるでしょうし、体験しなければ「しか」と言えないものかと思います。しかしこうした自然に対する「感性」みたいな自然観には、論理的 あるいは科学的視点は無い感じがします。むしろ直観的洞察と言えるものかと思います。それは、個々人の能力や感性にひどく依存するものです。そうでなければ、他人の説く教えにふむふむと頷くものです。

ここで、私は「自然神学」に関心を持ちます。キリスト教において自然神学と言ってどう捉えられており、どう研究されてきたのかを正しく説明はできないのですが、自然ヤ宇宙や人間を考察するにおいて、インテリジェント・デザイン(ID理論)も自然神学かそれに近いものではないかと思っていますが、ここに私が自然神学に対する的確な言葉があるので紹介します。
アメリカの脳生理学者でノーベル賞受賞者でもあるジョン・C・エックルス博士がその本「脳と宇宙への冒険」の中に引用されています。
・・・「自然神学の範囲というのは、自然から導かれるあらゆる証拠から、自然というものがあらゆる意味を込めて、崇敬の念を持って神と呼ばれるものの存在を、意味し包含するものかどうかを確として考量するということである」・・・

即ち、特別の啓示に訴えることなく、物理や化学や生物学や医学などの追求から出てくる真理は、人間が知りえる自然が行う、とは到底言えない何者かの賢き知恵者の存在を暗示する、というものです。
科学者の中には、唯物的思考する人達も多く、目に見えない存在、益して神の存在を否定する人達も多い。が、時代は余りに微小で、また極大の世界を認識し、取り扱うようになってきた。ナノ技術はそうであり、
10億分の1の世界を扱う。そして天文学は億年光年という途轍もない世界を扱う。そこに共通の原則が見出されたら、又は通底する知恵が見出されたら、そこには人間を超えた何かの存在を推察せざるを得ないでしょう。

この視点には、帰納的に究極の存在を捕まえようとするものです。宗教は演繹的に神の存在から考えます。神から始まります。聖書にある通り、「始めに神は天と地とを造られた」とあるように。それを信じるところから始まります。大乗仏教も仏の存在を疑うところからは始まりません。1点から全体に広がっていきます。宇宙想像のように。

しかし自然神学の追求の仕方は謙虚な姿勢をもって、自然が提示しているあらゆる存在と存在様相の中に、究極の背景を思わせます。これがもっともっと現代に日本に教育に取り入れられれば、メデイアの科学番組に取り入れられれば良いのです。

世の人達は、始めから信仰、有神論的前提から始めている、と批判するかも知れない。しかし、結局、どちらかになるのです。科学は自然を正しく解明するところまでです。あとは次の哲学的課題です。

如何?









posted by バーナードショー at 19:46| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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