2010年02月25日

笑いと宗教

「笑いの門に福来る」と言います。
日常生活の経験から得た知恵だと思います。どちらかと云えば裕福に暮らす人達の悟りではなく、比較的貧しい人々の経験的上得た知恵だと思います。
宗教は、現実世界の中に真実や善や幸福を見ることが難しい故に、超越した世界に神や仏や幸せを求める性格をもっているようです。現実生活の厳しさを離れて魂の救いを求めるという根本要素をもっていると思います。
笑いは、生活の中での可笑しさを覚えるときに現れる人間の態度・現象です。今日の医学は、この笑いが病気の抵抗力や免疫性を引き出すことがあることも認めるようです。脳内機能に何か良い要素を引き出す。
緊張を解きほぐすものでもあります。笑いは多くの人々が共に笑うということは可能ですが、勿論、平素国境を越えたり、地域を越えたり、過去の人々と共にしたりすることはできません。テレビで生中継すれば、
その場で笑いを可能にすることはできます。しかし、基本的に一人か少人数での現象かと思います。
その点で、時空を超える枠で可能な宗教の広がりとはレベルが違うと言えます。
「笑いを科学する」という本の一部を読みましたが、例えばキリスト教を背景にして歴史的に描かれてきた聖画聖像で笑いを表現しているものは無いそうです。仏教では一部あるそうですが、稀なことです。
ということは、宗教と笑いは相反する あるいは遠い関係と言えるかも知れません。どちらも本当は幸福を表現したり、平和を願ったりするものなのに、変です。神道には、古事記ですか天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時、アマウズメの女神が裸踊りをするのを他の男?の神々が見て大笑いしているのを天照大御神が興味をもって見ようとした、という話があります。少し、次元は違うのですが、神話の一節として笑いが宗教に結ぶ手がかりになるやも知れません。

とにかく、地上に平和と笑いがこぼれる世界を否定したり嫌がる人はいないでしょう。宗教は真理と善と平和を求めるものですから、そこでつながりが出てきます。相反するものではなく、目指すものは同じではないでしょうか・・・人間の個人現象からせめて家庭レベルで手を携えるものではないでしょうか?これまで家庭の救いを説くことを基本にした宗教は無かったのです。家庭宗教。


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2010年02月19日

真の父母 真の師 真の主人

人は誰でも家庭の中に生まれます。浄土宗で表現される「厭離穢土」から出家した僧侶も、その後結婚しなくても、家庭のもつ意義は知らなければなりません。霞を食べて竹林で暮らす訳ではなく、人の世に住むのですから。本来願わしい事として、人は真(まこと)に生きる良き父母の下に育つことです。そして父母の生きる姿を見て、子供は尊敬心を育まれます。社会の根本は家庭ですから、大勢として良き家庭で構成される社会・国家は安定し発展の基礎があるはずです。
そして、成長の為に学ぶ過程における学校生活では、先生に出会い、先生から学びますから、その先生の姿は、尊敬に値するものとして人格が問われます。そうした学生が社会に出てゆけば何らかの団体に所属し、そこには、会社の社長だとか、代表者、責任者がいます。かれらは、その団体の真の代表者としての姿があるべきです。犯罪を犯すものであってはなりません。真の主人です。
このような人生における各過程で真の姿は、3つの姿として人の世に現れれば、それがある意味で「理想世界」、あるいは浄土、あるいは天国と呼べる人の世になります。
しかしここで、「真」と呼べる基準が明確でなかったというのです。
真の父母は相対の世界です。イエスキリストもお一人でした。出家し仏陀となられたお釈迦様もマホメットも孔子も、そしてソクラテスも悪妻であったといううわさです。以前に書きました血統問題は別の話として、一人では表せない二人の姿が必要です。人間世界は男女により構成されているのですから、息子もおり、娘もいますし、女性徒も男性徒もおり、男女社員もいますから、真に上に立つ指導者は2人であるのが望まれると思います。韓国には、先生の奥さんのことを「師母」と表現しますが、良い言葉です。
こうした真の師、真の主人、真の父母がいる社会は、神や仏やアッラーやエホバや天が共にいる世界で、宗教が不要な世界でもあり、宗教が説いてきた世界です。

お金にまつわる不祥事を抱えた政治家はいかに遠い姿でしょうか。
不正を働く企業家は如何に社会の悪でしょうか
女性徒にいたずらを働く教師は如何に恥ずかしいごきぶりでしょうか




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2010年02月08日

生死一如 心身一体 主客一体

正確な表現ではないですが、孔子が弟子に尋ねられて答えました「未だ生を知らず、いづくんぞ死を知らん」と。ソクラテスもこれとは少し違いますが、「汝自身を知れ」と。

私たちは生まれて今生きています。人体は自然に機能し、衣食住を行ってあらゆる人間活動をして百年足らずを生きます。宗教世界において、その後の「人生」であるあの世を説きます。最近テレビや本で、「スピリチュアル」の世界が語られます。昔から怪談話があり、お化けがいるとか、いない、信じる信じないなどの話をします。また、突然の事故や病気のための手術中に、「霊体離脱」して、自分の体を空中から見たとか、あの世らしき世界を見たとかの話や研究もあります。テレビ番組「仁」で、現代の医師が江戸幕末時代に「トランスポーテーション」した時のドラマもありました。

人は一般にある時間が過ぎて、過去の自分を振り返り、反省したり、過去の自分の言動を客観的というか冷静に分析したりします。過去の自分を客体化し、客観視するのです。
此岸と彼岸という世界があります。この世とあの世ということです。人は鏡で自分の姿を客観視します。このように、ある意味で他者から、自己を見て初めて自己が分かる、というのです。芸術ならば、主観が大切にされますが、人の言動においては、多く客観的に考えるということが評価されたりします。大人の一つの印です。

また、(事故などで)あの世を垣間見て、初めて、この世と現実の生の意味を知るということが、先程の孔子の言葉に通じる、未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや、ということは正に真理ではないでしょうか。
即ち、人生の意味や価値を知るには、霊界を知らずしては、解けないと言える、という類推が立ちます。逆に、この世とか生の人生を知らずしては、あの世のことも分からないとも言えます。vice versa.
ところが、心身一体にならなければ、この世において、人格は陶冶されません。言ってることと、やってることが違えば、政治家でなくとも、信用を失い、自己を裏切ることになります。聖書にあるように、人は万物にも劣る、偽りの存在とあり、イエス様は「あなた方は、へびの子、まむしの子らよ」と云われ、神の血統から生まれてきた純粋、純血、純潔なものではない、ことを明らかにされている。二枚舌のへびに例えられてる存在として指摘されている。心と体が完全一体とは誰もなっていません。故に、仏教でも修行をしてきました。体が心に正しく服従するように。欲望に負けて、心を邪まにしないように。

全ての人類に心身一体は課題です。しかし、誰もにとって、容易な事ではありません。
何故ならば、根源的に心が分離してしまったからです。邪心と本心が戦う存在として、生を受けてしまっています。これを如何に解決するかが人類の根本問題で、「救い主」の鍵がそこにあります。メシア、キリストという根本問題があります。全宗教に関わらずです。イエス様に蛇の子と言わせないようになる必要があるのです。どうすべきでしょうか?
一体と分離 これが今日のテーマです。皆さん、如何にお考えですか? お前の勝手な考え、独断と偏見と言われますか? 仏教者の方々の意見を聞いてみたいです。










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2010年02月07日

本覚真如からのバテレン批判

第3;鈴木正三(徳川初期の禅僧)の「破 吉利支丹」(キリスト教批判)で、日本には本覚真如の仏があるのに、バテレンが魔法/邪義(邪まな教え)を広めており、その罪は天罰を免れない、と言っている。これも現代でも日本的思考をもって、神代から日本には神道があり、仏教徒が大半なのに、キリスト教は異国の宗教で、日本には関係ない、という人々がいる。
何事においても、他者を知らないで、あるいは批判する相手の内容を良くも知らないで、自己の思考の枠の中でのみ考え判断して他者相手をけなしたり、当たらない批判をすることは誠に多く見受けられる事です。16世紀末期においては既に聖書がかなり訳されていた。
鈴木は読んではいない。自己の仏教的思考の枠の中だけで非難している。

仏教の本覚思想は人間に仏に目覚める本性があることを言うものですし、真如は本仏自体です。元来、釈迦ではなく、仏自体の実体が明らかではない仏教において、あるいは阿弥陀仏の語源のように、無量光又は無量寿のような人格を伴わない存在として言い表したり、久遠(永久)本仏と言っても、仏自体の姿が明らかではない。どの宗教も曖昧であることを許さざるを得なかった。それでも、目に見えない力を信じて発展してきた。
それでも、ユダヤキリスト教やイスラム教においては、信じる信じないは別にしても、「神」、「アッラー」の指示、命令や言葉が満載?であるので、いかにも人間臭い面があるとはいえ、それなりに人格的存在としての面を知ることができます。批判ではないにdしても、大乗仏典は何一つ仏それ自体の言葉ではない。益して、「如是我聞」と書かれているように、弟子のその又弟子。。。を通じてこう聞いたということであって、自説のような内容を経典にしてしまったとも言えなくはない部分を多く含みます。
そうした足場に立つ鈴木正三が、バテレンの教えの為に命まで捨てるよな分けの分からない人間が多い、とは正に自分自身の稚拙であることを天下に明らかにしてしまった。
あの世で恥じているかも知れない。
権力と刀で信仰を捨てろと迫られ、拒否するのは正に信仰の自由であり、強制改宗の輩には分からない心の自由天地の境地です。「バテレン信仰は国の恥」で外国にまで聞こえたら悔しいことだ、とはその後長く日本人の恥の文化がここにも厳然と現れた言い草です。

バテレン信仰を貶めず、自らの信仰のみを人々に説くのみであれば良かったのに、歴史に汚点を残した鈴木の姿は、しかし、仏教僧侶にある落し穴かも知れない。
本覚真如の教えは、ある意味立場を返れば神人一体のことをさし、正にイエスキリストの実体を指すことに比肩できる内容なのに、批判の武器として使えば、価値を損なうものです。





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2010年02月04日

因縁論からの十字架観

前回、江戸時代初期の禅僧;鈴木正三の破吉利支丹(キリスト教批判)の一つを紹介しましたが、更に次に「イエス・キリスト=デウスは下界の凡夫に磔(十字架刑)にされた。こうした存在が天地の主と言ってよいか」。この疑問に因縁的考えが加わり、キリスト教批判に繋がっています。前回、論じましたように、イエス=神とする信仰観は仏教者には信じがたい、受け入れがたい処からの批判です。論理としては分かります。天地創造したという神が何故民衆に殺害されるのか、そうした人が何故神として崇めるのか?理解し難い信仰です。過去に先祖を含めて殺害されるにはそれなりの過去の過ちがあり、それらが何かの縁を伴って結果として殺害されることになるのだ、という因縁論的解釈は現代にまで生きており、イエスの場合もそうした観点からキリスト教批判が行われ今日、日本の大きな法華経集団も同じ論理に立って批判します。
400年前から同じ理屈です。
イエス様はキリスト(メシア=救世主)の使命をもって、人として生まれ、ユダヤの歴史的宗教的背景の中に、その使命を果たそうとされました。鈴木正三は旧約聖書の中に、神が如何に摂理してきたか、何故ユダヤの地にイエス・キリストが生まれるようになったかまでは知りようがありませんでした。旧約聖書も読んだことも無いのですから、上記の疑問がでてくるのも当然です。言葉を変えれば、聖人が民衆に何故殺されたのかという疑問に似ています。天地を知る者が天地を知らない者に殺される理由があるかということです。キリスト教神学では必ずしもイエス様が神の子として、キリストとして誕生された歴史的血統的説明ができていない為に、「異邦」の民からは疑問がでるのは当然です。聖書にもあるように、イエス様も信じられるようにも行動され、生まれの事跡もありました。しかし、民衆の側やイエス様を証しする側にも問題があり、責任がありましたが、それらが上手くかみ合うことなく、不信が増大し、既成概念がユダヤの学者、ラビ達を虜にし、され、「新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる」ことができなかったのです。失ってはならない尊い人を無残な形で殺害した結果は直接携わっていない人達にもその累加が及んだことはその後のユダヤの歴史が証明しています。
即ち、因縁論的観点から十字架についての考察は当たらないのです。仏教者が心しなければならない点です。鈴木正三も時代的制約があるものの現代でも同じ間違いを犯す多くの仏者がいることを思えば、立場が仏教概念の上とその時代の教養の上にしかなかったことが彼の批判の限界でした。神学的には、原罪を負った人類は、神の人イエス一人の信仰ととりなしの愛と犠牲によって罪の贖いをして下さった、従ってイエスを信じれば救われる、これが基本的答えです。これは基本的に正しい答えです。が、前回にも書きましたように、神様は根本的に天においても地においても人類世界の根本平和を実現することを願われているので、
あの世だけの救いを願っているのではありません。
徳川家康の宗教顧問の天海僧正も似たようなバテレン批判ですし、転びのバテレンも同じような批判誤解です。
これ以上のことは神様の根本摂理に関わることになり、従来に既成神学がひっくり返ることになりますので、今日はここまでです。


posted by バーナードショー at 14:39| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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