2010年01月29日

仏教とヨナと神様

先ず、旧約聖書のヨナ書の話から始めます。ヨナ書は預言書の一つですが、預言者ヨナは、
神様の命令で悪の町ニネベに行って悪を改めさせなさいと云われ、その使命から逃れようと船に乗りますが、大嵐に合い、その原因が神から離れた自分であると察して海へ自ら投げ込まれます。クジラのような大きな魚に飲まれ、腹の中で悔い改めます。それで吐き出され、ニネベに行って、「悔い改めよ」と呼ばわります。すると、意外なことに、王様自ら灰をかぶって懺悔します。民衆も。そうした様子を見たヨナはひねくれて、不快に思い怒って神にもの申します。「あなたは慈悲深く恵み深い方だということを知っていたから、私は逃げたのです」と。ヨナはニネベが嫌いでした。それなら、自分の命を取ってくれ、と神に言います。それに対し、神は滅ぼそうとも思っていたが、王を始め町衆が皆悔い改めたので、そうした人々をどうして滅ぼせようか、惜しまないでおれようか、と言います。

ニネベの人々は元々神を信じていたのでしょう。そこが違うのですが、仏教は前回のブログに書きましたが、お釈迦様が神を追求する道を塞ぎました。息詰まりです。霊界を知ることを塞ぎました。宇宙と霊界を会わせて二重世界で構成されていることは、人間は心と体が一つであって、二重であるようにです。その心、内的世界を否定したので、今もって
例えば禅宗においても、霊界を問題にしません。京都に有名なお寺の僧侶の方々がいますが、霊界の存在を正面切ってうたう僧はいるようではありません。
スリランカから来られて南伝仏教を布教している長老も一層霊界は否定しますから、感覚として、息苦しい感じが私はします。

神様はヨナ書に示されているように、懐深く、忍耐深く、愛することに惜しみないことを表しているのですが、それでも働き人ヨナのような人を通じて、神の愛を表したいのです。前回、キリスト教は仏教を惜しみなく祝福して欲しいと書きましたが、神の代身がが必要です。宗教は個別的に、それぞれ発展すれば良いという考えが強いのですが、それを打ち破ってでも私は、交流と互いに祝福が必要と考えます。現代のヨナは何処に、キリスト教人口の全く少ない日本において。





posted by バーナードショー at 22:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月28日

祝福の比較宗教

旧約聖書によれば、天地創造の神が最初の人間;アダムとエバに祝福して言われ「生めよ、殖えよ 万のものを治めよ」。これは神が人間の成長と完成により、結婚を通じて子孫繁殖とその上で森羅万象の自然や環境を正しく愛をもって管理しなさい、という祝いのメッセージです。
その後、神の言葉を預かって王や民衆に伝える預言者が、王の即位に際し、祝福するというサムエルがサウル王を祝福したよな例があり、ノアやアブラハムに対しても神は子孫が砂粒のよに増えるだろうと祝福された、とある。そうしたユダヤの伝統を相続して、キリスト教においても、恐れ多くも(?)神を代身して牧師、神父が洗礼の時、あるいは信者が結婚する際に祝福するという行為がある。

立場はどうあれ、神を代身して人が人を祝福するというのは、恐らくユダヤ・キリスト教にのみ見られる行為ではないかと思いますが、違っていれば教えて下さい。神道においては、「祝詞」(のりと)がありますから、それを読んで、結婚だの地鎮祭だの色々な場面で祝いの行事は行います。
一般の人同士においては、結婚や何かの勝負に勝った、昇進した、何かの試験に合格した、受賞した、子が誕生したという出来事において、人が人を祝うことは世界中どこでも日常的なこととして行われている。

一方、仏教はその起源において、出家したお釈迦様が生老病死の苦の克服をテーマに戦い勝ち取った真理ー縁起の法や諸行無常、諸法無我などーやその涅槃の境地を仏域として弟子達を指導し、修行の道を敷いていったことから、その後の大乗仏教においても、人間を超越した存在としての「仏」を見出した後においても、禅の修行やひたすら念仏を唱えても、南無妙法蓮華経と唱えても、個人の道であって、その過程においても、ある程度(?)修行が終わっても(?)仏に代わり人を祝福するという伝統は仏教には無い。
私見ですが、これが仏教の性格の一つであり特徴でもありますが、それが仏教の課題、弱点ではないでしょうか? そもそもお釈迦様が天、神を見出さなかった、探求を閉じたので当然の結果ですが、人間を超越した存在を否定した立場からは、たとえ大乗化しようと、そこからは、超越的存在を代身して、祝福するということが出てくることはありません。キリスト教は仏教を対話・協力の中で、祝福してあげることを提案します。<国連超宗教対話の10年>が来年から始まります。神父と牧師は僧侶を祝福することを提案します。仏教者は大僧正であれ、宗派の管長であれ、一介の住職であれキリスト者から祝福されることを望んで頂きたい。仏教には祝福することがない。死んだ人を弔う言葉や行いはあります。だから、仏教には結婚式で人を祝う伝統が立たない。生まれた子を祝福する伝統が立たない。生老病死を克服したお釈迦様は、命の誕生と繁殖を喜ぶ伝統と教えを確立しなければならなかった。そうすれば、祝福の伝統が立ったのです。

今、最も高い価値をもって祝祷による祝福をするのは、統一教会です。
マスコミで叩かれ偏見に満ちているのですが、統一教会の祝福はその背景が特別なのです。是非、謙虚に尋ねてみて下さい。

祝福の伝統は神に始まり、ユダヤ・キリスト教を通じて歴史に生きてきたものです。



posted by バーナードショー at 15:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月26日

政治家のモラル

昨今、民主党代表者達の金銭的不祥事が国会内外で問題になっています。言うまでもなく、与党幹事長の小沢さんと国の政治的代表者である鳩山首相だ。

昔から、この世はお金(財)と女性問題、権力は悪魔の支配する3点セットであった。聖書をご覧下さい。この3つから最も遠くにあったイエス様が、40日断食が終わる時、悪魔(サタン=元、天使長ルーシェル)に試みられ、「石をパンに変えて見なさい」と云われ、「人間はパンのみに生きるにあらず」と、最高に空腹時に食べること、つまり肉的要求よりも「神の口より出る一つ一つのみ言で生きる」のだと、人は真理と正義に生きることをずばっと言い放ち、悪魔の試みを退けられた。政治家は心すべしです。知らない処で母親からお金の支援をもらっていた、という親子関係は良識関係でしょうか?いくら秘書を介してお金を出したのであろうと、母も政治を知らなかったわけでもありません。主人は外務大臣にもなった人であり、その父も首相経験者で、政治家がどうなければならないか知らないわけがありません。それを全く、鳩山民主党代表に完全に知らせなかったのは、いかにも異常です。小沢さんも不動産に関心が強かったということですが、田中首相の収賄問題に接して、身ぎれいにしなければいけないという徹底した政治姿勢をもたなかったのは、悪魔に狙われても仕方がないことです。いつまでも厚顔ではいられないでしょう。天網恢々粗にして漏らさず、です。

統一教会の創始者である文鮮明師は、国連に超宗教議会を作り、二院制にし、世界的宗教指導者をして上院を構成し、世界的、地球的、文明的視野から世界の平和を作り出そうとの提案をされています。現在の国連は国益を代弁する機関です。国益の代表者だけでは、世界の平和を作り出せないという過去の国連歴史60年からして明らかです。
一つの国の中に置いても、お金だの権力に縛られない声が国会に反映されなければなりません。天の声がします。国の代表的政治家がお金の問題を問われるのは実に恥ずかしいことです。民主主義は費用がかかると言われますが、こんなに通信が発達している時代に、
多くの資金が必要な政治は終わりにしなければなりません。道義的で、正しい人権が守られ、平和や和解やより良い生活を作り出す人を推薦してそうした高潔な人が政治指導者となる社会を求めなければならないと思います。民主主義はもっと正しく変質され、レベルアップしなければなりません。

警察、公安も宗教団体に対して、正しい目と耳をもって人権を守る機関でなければなりません。拉致監禁されたり、20歳を超えた青年達の信仰の自由を奪って強制改宗をしいている不貞な牧師やジャーナリストがいるのに、そうした自由を求め基本的人権がを守って欲しいという声を却下し、起訴もしない、そういった平衡感覚を失なった警察や検察であってはいけません。鳩山首相や小沢幹事長の不正ばかりでなく、そうした信仰者達の声に謙虚に耳を傾けることを願って止みません。この日本社会で、アンバランスな宗教観があって、偏見が上記のような不正を見逃しているのです。
再び聖書から引用します
「私に膝まづき、私を拝すれば、この世の全ての財産を与えよう」
お金に膝まづくな、 正義と真理に従順であって、非を悔い改め、天と民の声に聞き従え、これが今日のメッセージです。




























posted by バーナードショー at 21:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月24日

仏教者&僧侶の課題

<霊的世界の認識> テレビの影響は、その人の語りを視覚と音声をもって直に理解する処にあります。昨年「スピリチュアル」という片仮名をもって表された番組がありました。
「霊視」できるという江原啓之氏と美輪明宏さんの前に出演された様々な俳優などの亡くなった家族からのメッセージを伝えるという番組でした。当人は勿論霊界のことは見えないし、知りもしないので、ずばり指摘されて肯定的に受け入れることがほとんどでした。

それにより視聴者はどれくらい影響され、そうしたあの世からのメッセージを肯定的に受け止めたのだろうか あるいは番組の作り話としてしか見られず、忘却に流されたのだろうか。日本にある多くのお寺の僧、住職の方々は見たとすればどう感じたのでしょうか?アンケート調査して結果を知りたいものです。

さて、番組がどうであれ、21世紀に入り、霊界の存在を何となくでも感じたり、信じる人の人口は若い人達の間でも案外多くなっているのではないかという「期待」があります。返って、学者だとか「有識者」と呼ばれたりする人達やマスコミ関係者の方があの世の存在を否定し、信じない、知的レベルの低い考えだと見なす人達が多いのではないかと推測します。これは仏教の影響でもなく、科学技術の発展した社会に生きる人々の当然の傾向かもしれません。しかし、宗教は「霊界」と呼ばれる世界を説き、神ずる側に立つものです。ここで、歴史的に仏教や神道に育まれて来た日本の宗教社会のもたらして来たある種の結果があります。
そもそも、仏教は大乗化する前は、霊界が否定もしくは、存在の追求が阻止されています。お釈迦様によってです。もし、死後の世界、霊界が存在すれば、お釈迦様の責任たるや重大なものだということになります。鳩山首相が数十億円母親から贈られながら、知らなかった、で済まされる次元ではありません。イエスキリストの教えが在世中に広く東洋アジア世界に直で伝わらなかった故に、仏教は本格的に大乗化し、「発展」していったものと私は考えます。現実が長老派と大衆伝道を問題にする僧侶との桎梏があったとかどうかではなく。「天」からみれば、東アジアへの仏教伝搬に当たって、超越仏を仰ぐ超越信仰的性格/内容の信仰をどうしても導入せざるを得なかった、時空超越仏の誕生が即ち、大乗仏教の成立である。
しかし、今日に至るまで、いや今日こそ、誠に仏教指導者においてすら霊的世界への無知、無明はどうしようもなく、分からなくても、仏教の真我目覚めの修行や教えを説くことに集中すれば良いことになっています。
「天」はやむを得ず?江原さんのような僧侶でない人を通してでも霊的世界の存在をより分かり易い形で一般の人々へテレビを使ってでも有名な女優や俳優を使って啓蒙する機会を与えています。またそうした本を通して。

「がんばれ仏教」を言うのであれば、「目覚めよ 仏教者」よ。




posted by バーナードショー at 19:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

仏と仏の実体

日本人と日本の文化を長く導き、原動力&動機となってきた仏教を私は尊重しています。
私の先祖達も阿弥陀仏を信仰し、親の代まで続いてきましたから、無視や非難する者ではないし、そうした立場でもありません。
しかし、日本のほとんど全ての仏教が大乗仏教で、(阿含宗やテーラーワーダー仏教協会はあるが)超越仏を教え、信仰してきた。禅宗のような自己の真実に目覚め、極めることに強い修行のあり方を求めるものでも、仏を仰ぎ見ることには変わりない。

仏教界の様々な方が執筆されている月刊誌「大法輪」へ書いておられる学者や諸々のお寺の管長や住職の方々の記述されていることやその他の仏教書や仏像を見ても、「仏」そのものが分からない。大乗仏教においては、人間を超えた霊的存在としての仏を説くのであり、人間界に分かり易く見せるためか「仏像」も基本はお釈迦様の原型から来ているような気がする。阿弥陀仏であろうと、薬師如来であろうと不動明王であろうと、弥勒仏であろうとそうである。仏画に描かれる「仏様」も同じである。

真言密教の唱える即身成仏は、生きたまま仏になる。その場合の仏とは、仏の境地涅槃の境地に達した生身の人間を指す。しかし、空海は即身成仏したのでしょうか? どういう高僧が成仏したのでしょうか? 仏教史の中で、お釈迦様以後誰が仏になったのでしょうか? チベットには転生した仏がいるのでしょうか? 
日蓮宗の方々は日蓮「大聖人」と呼んだりします。浄土(真)宗の方々は、親鸞聖人と呼んだりします。仏ならずとも仏に近かったのでしょうか? 

要するに、仏とは何か?どんな存在なのか?どんな人が仏なのか?誰も何も明確ではありません。皆仏を求め、仏を信じて信仰しているのに。仏はこの時代に何を願い、将来どうしようとしておられるのか?人間世界の動きに、世界の諸々の困難にどういう人間に何を願うのか はっきり示される僧侶がいません、と思います。禅問答の公案で、仏は糞だの狗だのというのがありますが、本質を悟らせるためのものに過ぎません。

キリスト教の側から禅問すれば、仏に原罪ありや無しや?原罪ある人間が仏になるその仏とは誰か? ということになります。

しかし、偉いもので、2000年以上、明確でない仏を求め、信仰してきました。
真実の自己、真我を見い出せば、仏に会ったということでしょうか? 禅や上座部仏教ではそれで良いのかもしれません。が、大乗仏教の多くの宗派においては、人間を超越した存在としての「仏」がおられなくてはならない。
仏は今何処に? クオ バ デイス?









posted by バーナードショー at 00:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。