2009年09月26日

宗教者の顔について

自分の顔を棚に上げて、他者の顔のことをあれこれ言うのはフェアーなことではないですが、「聖職者」の顔を見てよく思うことがあることから、間違いがあるとしても記録に留めたいと思います。

顔は玄関であるとも言います。人は顔の表情で心の内を直感的に見ようとします。世の女性達は十代から、年寄りに至るまで、特に花盛りの女性はもう化粧に一所懸命です。男としてはその気持ちを理解しなくてはなりません。何せ女性の顔は何よりも男性に向けてのものですから。男は40代にもなれば、顔に責任を持て、とも言います。リンカーンの言葉でしたでしょうか。顔も手相と同じく、顔相を見ることができると言います。眼が大きいとか細いとか、おでこが広いとか狭いとか、鼻筋が通っているとか、福耳であるとかないとか。

勿論、顔は遺伝により、両親やその祖父母などの遺伝的影響を受けてできる、与えられると言っても良いかも知れません。しかし、外見は内性(心)の表れなので、ある程度人生を生きると、その精神的活動の結果として、顔は作られるのではないでしょうか?

私は、日本の著名な宗教者、有名なお寺などの門主、管長、別当、宗務総長、などと呼ばれる方々の顔を拝見して、様々思います。また、通りがかりにすれ違うお坊さんの顔をさっと見て感じます。こうしている私の顔も見られて判断されていると思った方が良さそうですが、禅宗の坊さんの顔、浄土宗のお坊さんの顔、南無妙法蓮華経と唱えているお坊さんの顔、様々感じます。テレビに移る坊さんの顔。

どうも宗教生活している人の顔としては、俗っぽいなあと感じる顔があります。私の偏見があるかと思います。顔の形は厳つい形をしていようとも、あるいは優しそうな丸顔をしていようとも、やはり何十年も心の生活、祈りの生活をしておれば、きっとそれなりの顔ができてくると考えるのは そう間違ったことではないのではないでしょうか?

商売、ビジネスをやっていたとしても、本当にお客さんに良いものを届けたいと謙虚な姿勢で生きている人はどこか違ってくるように思えます。

厳しい世間を渡ってゆくには、難しい判断と行動をしてゆかなくてはいけないことも多いですから、好々爺だけの表情をしているわけにはいかないと思います。

私は、眼に見える身体と眼に見えない霊なる人体の二重構造をもったのが人間だと思っていますから、特に信仰者のように、精神生活を重視した生活をしている人がその内的影響を霊なる体に変化を起こさないわけがないと思います。そうならば、その体は、眼に見える体に変化と影響を与えざるを得ないと思います。

顔と顔から発する雰囲気、表情はこのようにして作られると思います。踊りのバレーをしている人はやはりそれらしい顔になるように感じます。ドイツの哲学者ヘーゲルの顔をご覧下さい。厳しい哲学をした人の顔のようです。

生まれや育ちもある程度顔に現れますが、傲慢な貴族の顔もあります。クレオパトラの鼻だけが世界を変えるものではありません。しかし、俳優は大したものですね。善人も悪人も演じられる。顔の表情一つで、一瞬の演技を行う。

とにかく、顔を一見しただけで 軽卒な判断はできないと肝に銘じなくてはいけないと思います。と共に、顔には何か意味深いものが現れるというのも事実ではないでしょうか?













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2009年09月24日

物を燃やすことを考える

ギリシャ神話には、火を人間世界にもたらした神がいるという。プロメテウス?日本の火の神 あるいは、かまど=キッチンの神は「荒神」というようだ。知り合いのおばあさんが台所の上に神棚を祭り、毎日無病息災 事故が起きませんようにと拝んでいる。そのおばあさんは、立正佼成会から分かれた「妙知会」という法華経の宗教団体に属しており、
そのように指導を受けているという。法華経のどこに荒神を祭り拝む話が出ているのか私は知らない。

火を尊重するのは、イランに生まれたゾロアスター教、中国名で拝火教というのがある。祭壇の聖なる火を尊重する。

日本の阿含宗という阿含経典を奉じる宗教団体は、護摩焚きを通して、先祖供養や諸々の罪障を浄化する儀式をする。夏には、イスラエルのエルサレムで、ユダヤ人のヒットラーによる犠牲者を弔う為に、護摩焚きを行った。そして、10月には、ソロモン諸島の激戦地ガダルカナル島でも護摩焚きを行うという。大火を燃やして、供養する。

火はある種の事態を浄化することが込められている。火にも色々ある。
現代では、原子力発電で、核分裂による火もあり、宇宙の始まりも大爆発の火であり、太陽は核融合による火であり、ろうそくの火もあり、
木材やプロパンガスが燃える火もある。それらは熱や光のエネルギーを取り出す火である。

阿含経典には、お釈迦様が世は燃えている、煩悩が燃えている・・・
と抽象的に燃える火がある。

聖書には、「舌は火である」とある。何故? 人間は大言壮語し、言葉によって傷つけ、真理によって裁く。

「火」は物を燃やす。物を燃やす意味は何だろう?物は目に見える形あるものである。人間の身体も化学物質でできている。死亡により、火葬する。形が無くなる。燃やせば単なる物質に変わる。人間を含め、様々な物質を集めて、形あるものを構成する。用が済めば 燃やし無形となる。宗教的に考えれば、魂を天に送るためであろうか?

地球上の物質の絶対量は決まっている。どんなに姿・形を変えても一定量に変わりはない。エジプトのピラミッドができた時代と今日の地球もほとんど同じである。月から石をもって来ない限り、天体から隕石が降って来ない限り。

燃やすことは、姿 形を変えて 世界を一定量に保つ知恵である。
物は腐敗して消えるか燃えて消えるか 地上でこの知恵をもたらしたのは神か仏か 地上の原理か? 





  


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2009年09月19日

将来の経済のあり様を求めて

経済とは、「経世斉民」即ち世を経てゆく際 国民を整える事だと言う。私はもう30年以上も前に神戸大学の経済学部を卒業した者ですが、今や、基礎的考え方しか残っていないかも知れません。卒論のテーマは、経済史的なテーマで、中世ヨーロッパの大表的神学者であるトーマス アクゥイナスの神学的な観点からの物財論のようなものでした。経済史専門の先生のゼミをとれば良かったのに、昔の経済など現代に何の関係やあらんと浅はかな考えで、こともあろうに農業経済が専門の京都大学から来られた先生の経済政策のゼミをとってしまった。ところが、卒論は、考えた末に 上記のような昔のしかも神学者の著書にあらわれた内容を巡っての自分なりの卒論にしてしまった。

一般に卒論を書いた場合、その論文はずっと自分の元にもっているものでしょうか?私は、コピーを取らずに提出してしまったので、卒論の全文は手元に無いのです。

さて、物財は、人間が日常生活する上で必須のものです。どんな物をどれくらい、どのように必要かは人により、状況により異なります。物物交換することは今でもありますが、広くは貨幣が発明されてからは、物の価値を貨幣で表し、それを払うことにより物財を得る、売るようになりました。そうして人間はお金に捕われるようになり、お金を物欲を満たす手段とするようになり、自由資本主義に結びついてゆく基礎が作られていったと言えるでしょうか。共産主義的考えをしても、勿論お金を必要としますので、物財をどう評価するかにより、労働投入量を価値量とするかにより別れてきます。

最近、アフリカ/ケニアの環境副大臣であるワンガリ マータイさんが「もったいない」を広め、日本人にも物の大切さを再自覚させ促してくれましたが、人間は、物をそもそも
自分の物と他人の物をどう扱うかを神学者の立場から中世に考察したのがトーマス アキナスであった。そこには必ずしも自己中から他人の物よりも、自分の物を大切に扱うとばかりは言えない面があるのですが、しかし、実際 物に対する必然的な管理上、あるいは長期的心理や特別なこだわりがあるとすれば、やはりそうしたことが無い場合よりも、そうした動機や態度をもった人の方がその物を大切に扱うことは、当然ありうることから、
他人との共通の所有や管理する物財よりも、自己管理の下にある物財の方を大切にするというのは、頷けることではあります。そういう考察ばかりではなく、社会の制度的にも
トーマス アキナスは考察しているが、結論的には、やはり社会共産主義的物財所有制度をもつ社会よりも、個人による自由所有制度の方に軍配をあげることを示唆している。

私は今ほとんど忘れかけている卒論を思い出しながら、書いていますが、人間と物財との関係が、宗教を介在させて考える可能性を示唆しています。「もったいない」という態度、大量消費大量廃棄の経済時代 など将来に向けより好ましい人間の経済社会はどのようなものだろうか? 食べ過ぎると糖尿病を引き起こす人間の体、食料不足で餓死する人々がいる社会、などあれこれ考えると、適度な運動と、腹八分目以内の抑制された食事、が人間の健康を保つように、過剰に蓄えることのない経済社会がどのように打ち立てれば良いのか 食べ過ぎ肥満は恥ずかしい自己中の表れというしかない社会、

地球全体がそのようなバランスのとれた生産、分配、消費そして循環の社会として将来作り上げられるようにならなくてはいけないと思います。











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2009年09月17日

天と音楽

宗教と音楽・芸術とは昔から関係が深い。キリスト教はグレゴリア聖歌を始め、賛美歌、ミサ曲、レクイエムなど、バッハやベートーベン、モーツアルトなど偉大な曲を作っていることは周知のことである。仏教やイスラム教にはほとんどそれ自体の音楽は無さそうだ。神道には雅楽がある。
礼記の楽記篇によれば、孔子は昔、笙の音楽を聴いて3ヶ月もの間肉の味を忘れる程心が浮いていたといいます。
「凡そ音の起こるは人心より生ずるなり。人心の動くは物 これをして然らしむなり」と。 即ち、音楽のもととなる音は、人の心の内部から発する ということでしょうか。仏教ならば、これに加えて、縁に触れてと。

ついでに、古代中国の諸子百家に言及すれば、墨子という人がいる。
教科書には、兼愛を説いたとある。それを基に万民の政治を提唱し、侵略戦争を否定し、防御のための戦争は止むを得ないとした。まるで、戦後の日本のようだ。

墨子は、音楽を評価しなかった。「天下の利を興すに益なし 天下の害をなすもの」とし、少数の貴族が享受する奢侈である、演奏者は非生産的存在とし、彼らの要養成に無用の財を費やし、人心の頽廃を導くもの、農業生産の低下を招くもの、などとして反対したという。
非楽論という。
私は、過去 音楽事務所のマネージャーのようなことに従事したことがあり、高校生の頃兄の影響で、クラシック音楽が好きになり、その後大学生の頃は毎朝 バロック音楽をFMで聴いていた。

しかし、墨子だけが諸子百家の中で、人格神としての天帝の実在を信じたという。私は彼をそういう意味で評価したい。

音楽に関して、上記と関係ないけど、ギリシャも日本の音楽も何故
5音階なのだろう。どこかの民族音楽もそうだった。





posted by バーナードショー at 15:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月15日

ラップの思想

ラップダンスの話ではありません。ラップ=包む という意味の思考を拡大して考えるものです。

包むことと宗教的教えと何か関係があるでしょうか?それをちょっと考えてみようと思います。日本には昔から包む思想 伝統があります。
風呂敷のことです。

かつてのソ連の社会科学研究所に乗り込んで、マルクシズムと対決しようとした日本のある学者がいました。そこにはカバンに資料を入れてもっていったのではありません。書籍を風呂敷に包んで、学者達の座るテーブルの上に置いたのです。彼らは日本の良き伝統的包みの布など知りません。綺麗な絵柄の風呂敷から取り出されるものを目をぱちくりしながら見ていたそうです。
私は、この風呂敷の文化を誇りに感じている一人です。そればかりではありません。男の下着 ステテコもそうです。欧州やアメリカ人は、
白くて、汗も吸い、暖房になり、ズボンとパンツの間にあってそうした機能をもつ紳士の身だしなみ?を知りません。伝統としてもっていません。私の意識では世界に誇るものです。あれも身体を包むものとして
今日の話に付け加えておきます。

さて、風呂敷に限らず、世の中は諸々の包装が満ちています。特に日本は包むことが好きです。過剰包装と言われるくらい商品を包みます。それも綺麗なデザインされた包装紙で。そう言えば、われらの体も皮膚で包装され、その上に衣類で包装しています。生まれてくる時とお風呂の時以外はほとんど着物を身につけています。胎児は羊水で包まれていると言えるかも知れません。死ねばお棺に入れられ花に包まれ、最後は土に包まれます。火に包まれるかも知れません。(ちょっと言いすぎでした)地球はバンアレン帯という磁場に保護され包まれ、薄い大気の層に包まれています。ほとんどの家電製品/器械類は中身の機能の部分を包まれています。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、パソコン、カメラ、何でもむき出し器械はありません。
日本人は(とりわけ京都人)は言いたいことがあっても別の表現をもってその心を包みます。露わには出しません。我が家も食卓や冷蔵庫の中はサラン(クレ)ラップに包まれた副食が毎日あります。助かっています。埃を気にする私には。寝ている間にゴキブリに触られては困りますから。人間は包まれて眠ることが好きです。掛け布団と敷布団の間に入って、柔らかく包まれて眠りたいのです。

しかし、心配には及びません。人間は<天と地>の間に包まれているのです。神様/仏様もそれに気がついて欲しいと願っておられるに違いありません。だって、こんなにも何もかも包まれて育って、生きているのですから。

裸で生きているものがあるでしょうか?痛いですよ。ミミズさんでもあれは皮に包まれて生きています。今夏も、田舎で土を掘り返し、ミミズを餌にして魚釣りをしました。海や川の魚もイカ、たこもちゃと包まれています。

かくして、大袈裟かも知れませんが、一切は包まれています。創造者の知恵を見ようではありませんか。前のブログに書きましたインテリジェント・デザインは、ラップの思想にも表れていると思います。





















posted by バーナードショー at 10:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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